高尾山総合インフォメーション「高尾通信」
高尾通信ホームへ 高尾通信へのお問合せ
高尾山観光案内
高尾山にまつわる文学
高尾の伝説と民話
高尾の自然
高尾のハイキングコース
薀蓄を語る 高尾山豆知識
高尾山の歴史
高尾の危機 高尾山と圏央道
高尾山の催し物紹介
ハイキング講座
ハイキンググッズを通販で
高尾通信
高尾山の豆知識

「皆さん こんにちは! 私は「高尾博士」。高尾のことならなんでも知っているんだ。高尾の楽しい話、知ってるとみんなに自慢できる(!?)話をご紹介しましょう。知りたいことをクリックしてご覧なさい。」



 

自主アセス

我が国の「環境アセスメント」は事業者自身が自分の費用により行うこととされているが、どうしても自分の利益に走る恐れのあることは否定できず、本来は事業者以外の第三者が中立な目で厳格に行うことが望ましいのは言うまでもない。

自主アセスとは、開発計画に反対、中止あるいは改善を求める市民や関係団体が、環境保護や開発の専門家に協力を求め、自分たちの費用で独自の観点から行うアセスメントである。開発サイドにたったものではなくそこに暮らす住民の意見を取り込みよりよい結果を出すためにも自主アセスはもっと重視されるべきと思われる。

高尾山では圏央道開発に絡み建設省や東京都が行う環境アセスメントを信用することなく住民達や自然保護団体が自主アセスを実行しましたがその結果、裏高尾の地形や高尾の自然を無視したものであったことが明白となっていきました。 
                  
       

PR
「そば打ちレッスンセット」【そば通のお店】
★24時間ダイエット4週間でマイナス10kg

 

陣場山と陣馬山

現在、ほとんどの地図やパンフレットでは「陣馬山」を用いていますが、本来は「陣場山」が正当だと言われています。

しかしながら1950年後半に京王帝都電鉄がこの地を観光地としてPR始めた折、登山家の岡部一彦氏が助言し、陣バ高原とネーミング、そのとき宣伝効果上バの字に馬をあてたのが始まりとされています。

以来陣馬高原の名が定着したものです。しかし都立公園名では「陣場」があてられ、また地元でも「陣場」を用いる人が多いようです。

       

 

森林インストラクター

森林インストラクターは、農林水産省が認定する資格です。森林の知識を教え、森林内での野外活動を指導するもので、世界規模で森林破壊が問題になっていることもあって「年々、受験者が増えている」(社団法人・全国森林レクリエーション協会)とのことです。

受験資格は、20歳以上。筆記試験実技、面接試験を経て資格認定となるわけですが、合格率は15%前後となかなか難関です。森林、林業についての基本的な事柄、キャンピング、ネーチャークラフトなどの野外活動、救急処置法、環境教育、自然保護、指導技術などといった幅広い知識が問われます。

全国森林レクリエーション協会が開いている講習会を受講して試験に臨むのが一般的で東京での講習会は、例年8月に8日間ほど開きます。講義のほか実習は高尾山で行うことが多いようです。

資格試験は年1回。例年9月に東京、大阪、福岡、高知で実施されます。受験料は1万5000円。       
詳細は全国森林レクリエーション協会=03(3585)4217=まで。


       

 

住み分け

高尾山の自然を語るときに「住み分け」をはずしてはいけない。なんとも自然の絶妙なバランスのすばらしさ不思議さを教えてくれるからだ。
ケーブルカーの山頂駅から南東の斜面を見渡してみよう。四季を通して黒々とした常緑樹のカシ類が見事に生い茂っているのがわかる。
ところが今度は目を転じて北西の斜面を見てみよう。すると今度はブナを中心とした落葉広葉樹に山肌が覆われているではないか。
落葉樹であるため冬はその木々が寒々として 枯れ枝ばかりが目立ち、初夏ともなると新緑が燃えるような青々とした山に変身する。
高尾山の表参道には、この常緑樹のカシと落葉樹のブナが並んで生息しているのです。なんとも不思議な光景としかいいようがありません。
しかしなぜこんなことがありうるのでしょうか。常緑樹のカシは暖地に、また落葉樹のブナはやや寒い地方に生息するはずなのですから。
                             
そもそも分布が異なるはずのブナとカシ、両者がこここに並んで繁っているのにはここ高尾山の標高に関係があります。この近辺は標高約500メートル。
ブナ林が生息するにはやや低すぎるが、カシが生息するにはやや高すぎる標高です。そうなんです。両者は自分たちが生息できるお互いに限界すれすれの高度で、すなわち限界の気温の中で微妙な自然界のバランスを保っているのです。
尾根の北斜面と南斜面の日当たりの差、温度差がこのブナとカシの林の違いということになるのです。


       

PR
■TVショップ話題の乗馬マシン☆ロデオボーイが激安+送料無料■
ヨーロッパ伝統の食文化『ナチュラルチーズ』、その深さをご家庭でどうぞ!

 

節分

高尾山薬王院では、力士・芸能人・ミス八王子・年男などが健康やしあわせを祈願し盛大に豆まきが行われ、節分祭が催されます。        

2月3日は節分。一般には単に「節分」といえば春の節分を指すものとなっていますが、実は「節分」とは、季節の分かれ目のことを指し、年に4回あるのです。季節を細かく分けたものに「二十四節気」があり、このうち立春・立夏・立秋・立冬がそれぞれ四季の始点となっているのです。つまり、2月でいえば春へと移る季節の前の日、これを「節分」いうのです。しかし年に4回ある節分のうち「春の節分」がどうしてこんなに盛んなのでしょうか。        

それは特に立春が1年の初めと考えられることから最も重視されていたからなのです。これは立春を新年と考えれば大晦日に相当する訳で、そのため前年の邪気を全て祓ってしまうための追儺(ついな)の行事が行われます。その代表が「豆まき」です。節分には「鬼はそと、福はうち」の掛け声とともに豆まきを行ないますが、もととは、新年を前に旧年中の罪けがれをはらい去って、新しい年を迎えることであったといわれています。       

豆まきでは年男(その年のえとの生まれの人:今年12,24,36,48,60,72,84,96, 108,120歳になる男性)あるいは一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、みんな自分の年の数だけ豆を食べるとこれから1年病気にならないと言われています。また妊婦のいる家庭ではこの豆を安産のお守りにもします。もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近は薬王院に限らず大きな神社や寺などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会をやっているケースも多いようです。       

さて、この硬い大豆は「木火土金水」の五行では「金」に属します。この大豆は最初煎ることによって火気にあてられ「火剋金」の原理で剋された上に「鬼は外」といって外にまかれて捨てられたり、「福は内」といってまかれてから人々に食べられたりして、要するに豆はみんな「やっつけられてしまいます」。古来疫病や災厄というのも金気に属するものと考えられていました。ですから豆というのは実は鬼をやっつける道具でありながら実は鬼そのものでもあるわけで、豆まきというのは邪気を祓うとともに、「金」の気を剋することで「金剋木」で金気に剋されるはずの「木」の気、つまり春の気を助ける行事、つまり春を呼ぶ行事でもあるのです。        
この豆まきの豆について、重要なことは煎り豆を使うということです。万一 生豆を使って、拾い忘れたものから芽が出るとよくないことがある、と言われています。また近年、節分の日、スーパーなどに行くと、「節分用太巻き」というのが売ってあります。節分の夜に太い巻き寿司をらっぱでも吹くかのようにくわえ、無言で食うと、1年間よいことがあるのだそうです。もともとは愛知県の方の風習らしいのですが(大阪起源説もあり)、1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったというのが事実のようでちょっと商売に乗せられた感じもしますね。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。

また鰯の頭や柊の葉を門のところに挿しておく習慣があちこちに残っています。これは鰯の頭はその悪臭で、柊の葉はその先のとがったところで、鬼を追い払うからと俗に言われています。にんにく(えっ、ドラキュラじゃなかったの)ネギ、髪の毛という地方もあるようです。


       

 

千人同心

中央線西八王子駅で下車し甲州街道に出るとそこには千人町の家並みが続きます。この一帯は、かつて「千人同心」の千人頭の拝領屋敷や組頭の同心屋敷が建ち並んでいた場所で、地名の千人町はその名の由来です。

八王子は江戸幕府にとっても軍事、民政の各点からも重要な拠点でした。北条氏がこの地に八王子城を築城した事由からも明らかなように昔から八王子から高尾の一帯が当時の要のひとつであったことがわかります。千人同心はその重要なこの地の治安維持、また甲州との境の警備(今で言う国境警備隊でしょうか)にあたらせるため組織された郷士軍団であったと言えます。同心とはいってもTVの時代劇で見るようなかっこいいものではなかったようです。(昔、隠密同心なんてのがありましたよね)ここ千人町に住むせいぜい100人前後の同心を除くと残りは、平時は本百姓としての生活を続けていたようです。 
      
もともとは武田氏時代の小人頭を中心とする国境警備の家臣団で、武田氏滅亡後、家康の支配下に入り、家康の江戸入り時に小人頭10名以下250名が八王子城下に移されました。その後500人に増員し、慶長5年(1600年)に1000人となり、ここに千人同心が誕生したわけです。成立初期には、関ヶ原や大阪の陣への軍役を担ったが、それ以降は将軍上洛や日光社参時の警備にあたり、幕末まで日光火の番を主要任務としました。

また蝦夷地(北海道)への入植、開拓、警備を行い、幕末動乱期には横浜の警備、長州出兵、などの任務も遂行しました。幕府崩壊と共に一部が徳川に帰参し、また一部は新政府につかえることになりました。       

それでは千人同心の足跡をたどってみましょう。        
極楽寺から甲州街道の追分交差点は、陣馬街道新道と旧道の三角地には八王子千人同心屋敷跡の碑が立っています。ここ千人町は先ほども説明の通り千人同心の居住地でした。またここからJR高尾駅に向かい、多摩御陵の設営にあたって植えられた4kmあまりのいちょう並木がつづきます。
この途中の興岳寺(千人町1丁目信号左)前には千人頭石坂弥次右衛門義礼の墓があります。石坂は慶応4年(1868)に最後の日光警備の責任者として徳川 家祖廟を官軍に無血引き渡ししましたが、帰郷した後、その責任をとって自刃した文字通り維新動乱期の悲劇の人物です。                

西八王子駅そばの宗格院の山門脇には千人隊事蹟碑があり、庫裏の裏手には 大久保長安が築かせた石見土手が残っています。また本堂裏の墓地には松本斗機蔵(ときぞう)の墓(都旧跡)があります。松本は当時の海外諸事情に精通し、渡辺華山、高野長英らの蘭学者のグループ「蛮社」の一員でもありました。伊豆韮山代官江川英龍、水戸の藤田東湖らとも親交があり、モリソン号渡来の際には打ち払いの無謀なことを憂い、幕府に上書を呈出、天保8年(1837)には「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を著して海防、開国の方策を力説提言しました。


                  

 

高尾山自然保護実行委員会

高尾山自然保護実行委員会は、1985年、東京都内の自然保護団体が高尾山を圏央道計画から守るためにシンポジウムや現地調査を行い、その中から連絡機関として発足しました。       

都議会への13万人余の請願署名活動、環境影響評価書(アセスメント)案への意見書提出運動などをへて、借地権による高尾型ナショナルトラストをはじめ1992年からは立木トラストを開始しました(高尾自然体験学習林の会)。       

また高尾山の健康度調査を行い、その結果を盛り込んだハイキングガイドブック「わたしの高尾山」を編集発行しました。毎月、定例会とニュースの発行を行っています。

また、同委員会は、平成16年の第13回の田尻賞(田尻宗昭記念基金(東京))を受賞した。この田尻賞は、海上保安庁勤務時代に海の公害の摘発で「公害Gメン」と呼ばれ、海の乱開発に警告を発し続けて8年前に他界した田尻宗昭さんの遺志を後世に伝えるために設けられた賞で、1992年に創設された。環境保護や公害反対運動に功績のあった人を表彰するもので、第13回では、2個人とともに同委員会が受賞した。


       

 

天合峰の里山

高尾山の玄関口であるJR高尾駅から車で北に十分ほど行くと、住宅街の裏に小さな山並みが出現します。通称「天合峰」と呼ばれる典型的な里山です。        
ここでもオオタカの生息が確認され、研究団地の造成計画をめぐって揺れています。       
計画しているのは都市基盤整備公団(旧住宅・都市整備公団)で百七十ヘクタールの里山を「八王子川口リサーチパーク」(仮称)として造成し、ハイテク産業の研究施設、住宅などの団地をつくろうという事業です。この里山の下を圏央道(首都圏中央連絡自動車道)のトンネルが通る計画で、近くにはインターチェンジもできることから立地条件としても一等地であることは言うまでもありません。        

平成四年から環境アセスメントを実施したところ、翌年六月になって、アセス範囲の外側でオオタカの営巣地が見つかったという指摘が、地元の人からあり、一つがいの巣を確認できました。以来、このつがいは毎年営巣しており毎年三羽がふ化しているようです。これは高尾の山の自然状況がきわめて高いことを証明しているといっても過言ではありません。

当初は約七百億円をかけ、十年間で完成させる予定だったこのプロジェクトは中断したまま。宙に浮いた形ですが、この間、公団は「オオタカ生態調査検討会」を発足させ、一年間にわたって生態環境を調査しました。そしてこの検討会の七人の委員のうち三人は地元からの推薦といいますから、当時としては異例の措置といえ、公団の地元にいかに気遣っているかが伺えます。        

提出された「オオタカ生態調査の結果」では(1)営巣環境の確保(2)えさになるドバト、キジバトなどの保全−などが報告されオオタカが生息できる環境を模索したものの、結論はまだ出ていません。


       

PR
ぐるなび&Let’s Enjoy TOKYO では『憧れのロンドン旅行プレゼント』キャンペーンを実施中です。
ロンドン旅行6日間やモバイルPC、デジカメ、VISAギフトカードなどなど。。
豪華賞品をど〜んと144名様にプレゼントいたします!
2006年2月26日までの見逃せないプレゼントとなっております。
ご応募はお早めに☆



 

八王子の地名起源説

八王子の地名起源には諸説があるものの一般的には華厳菩薩妙行(けごんぼさつみょうぎょう)という名僧の伝説によるとされています。


これは、城山の城跡公園の手前にある、宗閑寺(北条氏照が開基したとされている)に伝わる古記録『華厳菩薩記』に記述の伝説によるものです。
平安時代の延喜16年(916)に修行中の華厳菩薩妙行と言う高僧が、夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神)をこの地に祭ることを託され菩薩はこれを八王子権現(ごんげん)と名付けて祀ったというものです。後から述べるように、牛頭天王は祇園精舎の守護神とされ、薬師如来の化身です。

また、権現とは神仏習合についての仏側からの説明です。仏・菩薩が衆生を救うために種々の身や物を権(かり)に現すことで、本地垂迹説では、仏が化身して、わが国の神として現れることを「権現」といいます。
これにより菩薩を慕う人々が地方から集まってきて山の下に村ができたといいます。
一方、北条氏照は、当時の居城であった滝山城が平城であることから戦略的には、欠陥がある城と判断し深沢山(現在の城山)に目を付け、天正10年(1582)にここに山城を築城しました。
その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけました。これが八王子という地名の由来になったというのです。
八王子の名前がこの古記録に記されてから、1998年でちょうど420年になるといいます。

一方、もうひとつの起源説は日吉山王社にあります。

日吉山王社は、比叡山の東麓、近江国大津の坂本にある山王総本宮日吉大社が本社となっています。その末社のひとつが浅川の水無瀬橋の近にある日吉山王社です。天慶8(940)年の創立で、文禄4(1595)年に八王子明神を勧請してこの地域の総鎮守となったものです。

江戸時代は「山王八王子権現」と呼ばれ、明治維新にやはり神仏分離によって日吉八王子神社となり、戦後は日吉神社と呼ばれています。
総本宮はもともと近くの牛尾山頂にあって、スサノウノミコトとアマテラスオオミカミがウケヒを行って生まれた、五人の王子を牛尾宮に、三人の王女を三宮に祀ったもので、これらを合わせて八王子とし、その山を地元では八王子山と呼んているようです。このため、日吉神社(山王八王子権現)が八王子の地名の起こりではないかという説があるのです。

ところで、これらの話の中に出てくる「牛頭天王」は、極めて複雑な神格を持っており、その来歴にも不明な点が多いのです。
一般的には、護法神ですが、祇園精舎(インドの祇園にある寺)の守護神とされています。

仏教は中国に伝わり道教とも混淆していったのですが、その地で牛頭天王は妻をめとることになります。相手を頗梨采女(はりさいにょ)と言います。夫婦は八子に恵ました。暦本に方位神の説明がありますが、その中心には女神の挿し絵付きで歳徳神、回りに太歳神以下の八方位神についての記述があるはずです。実は、これが頗梨采女とその八王子たちのことなのです。

もっともこの神様、本来のイメージは、あまりありがたくないのです。ある伝説では、武塔天神の一行をもてなさない巨旦長者に対して、八王子と八万四千の眷属を率いて、一族皆殺しの罰を与える、とんでもない神様なのです。
また、八王子は、本来は、八種類の疫病や災厄の象徴であったとも考えられます。牛頭天王も、殺戮する神から、殺戮者=疫病を制御する神へ、更に、疫病を防ぐ神=薬師如来と同体の神へと昇格していくことになります。中世後期は、室町幕府・戦国大名・国人武士団・宗教勢力などと、武装農民が入り乱れて、戦乱と破壊が続いた。そのためもあってか、戦国武将にあっては牛頭天王への信仰が盛んになったようだ。その中に北条氏照がいたということでしょう。


               

 

一村一姓「峰尾」の摺差

小仏宿の東に続く村は「摺差(するさし)」といい、峠道の山間村だが、系譜研究家の間では興味をひくのは、この村が残らず「峰尾」姓であることだ。        

気を付けてみていると今でも門や入り口の表札はすべて「峰尾」となっており時々ハイカー達の話題になることもある。        
村の北に「小山明神」という小社がある。南朝派の重鎮だった野州小山犬若丸は、足利派に敗れ会津で再挙をはかったがこれにも敗れ自決、一族は脱出し八王子市御所水付近で宮方勢力と結ぶがことは成就せず、甲斐武田に下るもここでも計画はむなしく頓挫。武蔵に再び戻らんとして、この地摺差に土着し、密かに父祖の霊位とし一家の鎮守としたと伝えられている。一村一姓峰尾の村にある寺院常林寺も峰尾氏が開基したといわれている


PR
《三井住友銀行グループのプロミス》インターネットで簡単申込!プロミスは自動審査で1秒回答!50万円までのご融資なら来店不要で当日振込⇒最短30分!自動審査ですぐにご利用可能額がわかるから初めてでも安心、納得!便利に賢く使える《プロミス》です。全国の三井住友銀行のATMからも出金OK♪
ネットで24時間申込受付中!→お申込はこちら

       

 

ブナの受難

高尾の新緑の季節を見事に飾る「ブナ」の林。ブナ林は野鳥や動物達を養い水を貯え、山地斜面を保つうえでも重要な役割を果たしている。世界遺産に指定された白神山地をはじめとし東北の山々、そして高尾の山は美しく覆われている。

しかし、このブナは、かつては役に立たない木の代名詞とでも言うべき存在だった。そもそも「ブナ」は漢字では木へんに「無」と書くことからも想像できる。せいぜいお椀やしゃもじなどに加工する程度の用途しかなかったのです。ただ、そのおかげで大量の伐採からは免れ、第二次世界大戦前迄は、日本全国に広いブナの林が点在していた。                 

ブナがその運命を変えるのは、敗戦でサハリンが日本の領土ではなくなってしまったころからだ。良質の針葉樹が確保できなくなった製紙業者達は広葉樹を用いた製紙法を開発し、ブナも製紙に利用できるようになったのだ。こうしてブナの受難の時代は幕をきる。

日本全国でほとんど「ブナ退治」とでもいわんばかりに大量の伐採が始まるわけである。かつては100年もつといわれたブナの林は急速に日本各地からその姿を消していったのである。残りわずかとなってはじめて白神山地などでようやくブナ林の保護が始まったのです。

                                     









PR
こだわりや宿泊条件のある宿探しなら日本旅行の「宿ぷらざ」
TVで話題のゴマリグナンの主役はセサミン![サントリーセサミンEプラス]
花粉症対策



Copyright (c) 2005 高尾山ドットインフォ All rights reserved.