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「皆さん こんにちは! 私は「高尾博士」。高尾のことならなんでも知っているんだ。高尾の楽しい話、知ってるとみんなに自慢できる(!?)話をご紹介しましょう。知りたいことをクリックしてご覧なさい。」




イチョウ並木

JR中央線高尾駅前から続くイチョウ並木の甲州街道は、八王子千人同心にちなむ八王子市の千人町を過ぎ、陣馬街道と合流する追分交差点までの間は、日本でも指折りのイチョウ街道となっています。この並木道は昭和2(1927)年に植樹されたもので追分の交差点から4.2Kmの間に、768本植えられています。当時、大正天皇が崩御されて、この高尾の地にその墓所である武蔵陵が建設されていました。その武蔵陵の周辺整備の一環として、この地域の甲州街道が道路改修され、それにあわせてイチョウが植樹されたのです。
また、甲州街道から南浅川を渡る多摩御陵の参道には、高さ20mほどの大ケヤキ並木があります。さらに、御陵の総門を入ると参道の両側にキタヤマスギの並木が300mほど続きます。

沿道のイチョウは11月も半ばとなると美しく色づき、市民に愛されてきました。この並木、イチョウの雌雄選別ができていなかったために、あちらこちらで大量の銀杏が落ちているのが見られ、それらを目当てに多くの人が拾いに訪れます。
毎年11月の20日前後には、夏の八王子祭りについで大きな「いちょう祭り」が2日間に渡り開催されます。内外200台を越すクラシックカーのパレード、オリエンテーリングや陵南公園での各種イベントなど、八王子の秋の催しとして賑わうものです。いちょう祭りの会場となるのはもちろんイチョウ並木の甲州街道沿いで、祭りの中心となるのは陵南会館跡地の本部と陵南公園ですが、他にもいくつかの特設会場が設けられて賑わっています。各会場では飲食店の屋台が並んでいたり、各種のイベントが行われていてお祭り気分を盛り上げてくれます。

いのしし捕物帳


高尾山のふもとでは、例年10月末頃になるとイノシシによる被害が出始める。

頑丈な金網を張っても、金網の下を掘って侵入すし、文字どおり猪突猛進で体当たりして壊したり、はたまた1メートルくらいの高さを軽々とジャンプして、この鉄壁の構えを軽々と突破してしまう。

それではと、わなを仕掛けるにも、誤って人間がかかっては大変と単純にはいかない。勝手に猟銃で撃ってもいいかというと、お金を払った上での行政の許可が必要となる。また、地元猟友会の世話にならなくてはならない。

首尾よく射殺したとしても、その後、ぼたん鍋を囲んで宴会とはいかない。いのししより恐い(!?)自然保護団体の誤解を招かないよう法律・各種ルールを十分に検討した後、いろいろな報告をしたりとあれこれ大変。金網を作ったり、脅しの仕掛けを作ったりと被害防止のための金はかかるし、手続きもお役所仕事で煩雑である。苦情を待たずに駆除する方法を役所はもちろん、自然保護団体も一緒になって知恵を出し合い、繁殖の場所を調査して春からでも対策をとってもらいたいものだとは地元の人の弁。

もっともイノシシもいい迷惑だ。勝手に山の木々を伐採され、冬になれば食い物にもこまる始末。いきおい里へと降りてこなくては生きていけない。降りてきてちょっとつまみ食いをいすると追い掛け回され、脅かしてやろうと猪突猛進したら、今度は鉄砲を持って追いかけられる。ボタン鍋なんてとんでもない。なんて人間は身勝手なんだ.....(以上、イノシシのつぶやき)

しかし、人間と動物の共存は、本当に難しいものだ。

カゴノキ(都天然記念物)

クスノキ科の常緑高木で、学名は、Actinodaphne lancfolia。木の幹がまだらに剥がれて、白と茶色の鹿子になっているので「鹿子の木」と呼ばれていたが、なまってカゴノキとなった。随分と大きくなる常緑高木で、小仏近くの宝珠寺には都の天然記念物の大木がある。以下は、この木の説明板から

都天然記念物 小仏のカゴノキ

所在 八王子市裏高尾町785番地 宝珠寺境内
指定 昭和37年3月31日

宝珠寺本堂左脇の崖上にあり、主幹は枯れてその周囲を枝幹がとりまいて一株をなしている。目通り幹囲は、約4メートル、高さは約23メートル、根もとから1.3メートルのあたりから多くの枝が分岐している。一部の根が約3.1メートルの崖下の通路に露出し、樹幹を中心に南北約22メートル、東西約17メートルある。
カゴノキはコガノキともいい、暖地性常緑樹で雌雄異株。樹勢はきわめて旺盛で、関東地方における大樹である。

        昭和43年10月1日   東京都教育委員会

      

関東綱五郎

「江戸っ子だってね、スシ食いねえ、酒飲みねえ」、金毘羅参りに行く森の石松が船の中で有名な次郎長の子分は大政、子政、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、宝印大五郎、増川仙右衛門、追分三五郎とすしをすすめおだてながら自分の名前が出るのをいらだちながら待っている「清水次郎長伝」の内「石松三十石船」の一場面は有名だ。

さてここで出てくる「関東綱五郎」は、旅の途中で出会った黒目の五丁徳からの喧嘩の使いで来た折、次郎長が自分を斬らずに帰したことに意気を感じ、桶屋の鬼吉に続き、2人目のおしかけ子分となる。映画や講談では、ややお調子モノ的なところがあるものの、見かけによらず冷静で意外と頭が回る面も持つ愛すべき存在として描かれている。

この「関東綱五郎」は、ここ高尾山麓の住人であったようだ。
高尾、落合の集落に口留番所という関所があったが、この付近に八王子を中心に活躍した鈴木家という千人同心の大きな屋敷があった。この屋敷こそが、関東の綱五郎の家だったのだ。
甲州街道(国道20号)の端にその碑がある。「侠客関東綱五郎住居跡」
関東綱五郎が生まれた家の跡にはそれを示す石柱が建てられている。
そして、そこからほどない落合山寄りの墓地には、末裔によって「関東綱五郎墓之跡」と刻んだ碑が建てられている。


熊野神社の縁結び

JR高尾駅北口より西八王子方面へ甲州街道にそって6〜7分ほどいくと木々でうっそうとした薄暗い境内が見つかる。これが熊野神社だ。旧来より鎮守の森として住民から親しまれてきたが、神社縁起によれば、その昔諸国行脚の旅をしてここまでたどり着いた老夫婦が、紀州和歌山の熊野大社を奉斉したとのこと。その後、天正元年に北条氏照が再建したこれにいたったとか。 社殿左側にはご神木があるが、風邪除け、長寿の木として地元に崇拝されている。

また、中央線の南側には杉木立があって、ここはぢぢいの森、ばばあの森、またの名をお杓文字様といった。ここの祠に奉納されている杓文字をつかって飯を盛るとたちどころに風邪が治ったという言い伝えがあり、大正のころまでは付近の方達がよくお参りしていたようである。京王線の拡張工事によってこの熊野神社の境内に移されたというが、結局、中央線の開通と共に消滅してしまったようだ。

さて、ここ熊野神社には八王子城の恋人達にまつわるお話があります。今から400年前、八王子城主 北条氏照の家臣、篠村左近之助に安寧姫という美しい娘がいたそうです。氏照は、この娘をたいそう可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつもそばにおいていました。宴では、よく獅子舞が演じられ、その中にひときは上手に笛を吹く狭間の郷士の息子という若者がおりました。氏照は笛の名手でもありましたから、この若者を宴に呼んでは笛の音を楽しむのでした。安寧姫とこの若者はしばしば宴の席で顔を合わせることになり、いつしか恋が芽生えるようになりました。そして、この木の下で逢瀬を重ねていたといいます。その後この二人がどうなったのか何も記録がありません。ただ、この熊野神社ではご神木として樫の木と欅が根元から一緒になった珍しい木があります。地元ではこの木を縁結びの木といってこの木の根元に自分の名前と恋しい人の名前を書いた小石を二つ並べておくとその願いがかなうといいます。きっとあの二人が恋の行方を見守っていてくれるのでしょう........

小仏トンネルと小仏信号場

小仏峠を登り切ると、眼下には遙かに広がる東京の街並と、更に彼方には新宿の摩天楼も微かに望めます。

ここ高尾山ハイキングではおなじみの小仏峠の下には、小仏トンネルが通っているのをご存知ですか。
この小仏トンネルは、旧国鉄時代に中央線が1901(明治34)年に上野原まで開業したときのトンネルです。
2574mは、今でこそ、あちこちにこの程度の長さのトンネルは見かけますが、当時としては、かなり長いものでした。
また、蒸気機関車の時代にあって、煙が機関室に充満して機関士が失神するのを防ぐため、空気の流れを調節した排煙装置の跡がトンネル上に残っています。
電化前の時代の小さな口径のトンネルなので、低く折りたためるパンタグラフを装着した電車・電気機関車しか古い小さいトンネルをくぐれないというのも時代を感じさせます。
下り線は複線化で掘られた新しい大きいサイズのトンネルを使用しています。

また、中央線は以前いわゆるスイッチバック方式で山を登ったようで、小仏信号場を含めいくつかの信号場があったようです。
相模湖までを複線にするとき、小仏トンネルの手前までをまず複線とし、単線に変わるところに小仏信号場を置き、小仏トンネルの改修工事が終わって複線にしたとされています。
このときに、現在の高尾〜相模湖間にあった小仏信号場が廃止されました。

護摩

大晦日から元旦にかけては、二年詣りの大勢の参拝者でここ薬王院御本堂が溢れ、山頂では山伏、僧侶の読経の中、初日の出を迎える「迎光祭」が行われる。

法螺貝の音とともに15人前後の僧侶が入場山伏と僧侶が山を登って御堂に入り、火と燻しのけむりのなか、激しい大太鼓の音と、僧侶の経が唱えられる・・
新年特別開帳大護摩供から始まる高尾山の新年である。

さて、この護摩は、単に木ぎれを燃やしているのではありません。護摩は、そもそもは真言密教の秘法で、人々をより高い精神的境地へ導き、即身成仏にいたる修行法として組織したもので、飯縄大権現の知慧によって、煩悩(苦の源)を焼き尽くし、円満な悟りを体現することを目的にしています。

護摩修行は、御本尊飯縄大権現の「身・言葉・心」の神秘的な働き(三密)を、われわれの「身・言葉・心」と一致させ、人間の煩悩を表す薪に大導師が点火して、そこに生ずる知慧の浄火で、あらゆる煩悩を焼き清めるためにおこなわれるものなのです。

大本堂では、新年の特別開帳大護摩供や節分会、春季及び秋季大祭のほか、毎日、御護摩修行をおこなっている。
毎日の修行は、大本坊より山伏の法螺の音を先導に、職衆の僧と大導師が列をなし大本堂に向かいますので、運がよければ、この厳かな儀式を目の当たりにすることができます。



 

 

御陵参拝客争奪戦

JR高尾駅から程近く、多摩御陵があります。今では、ちょっと考えにくいのですが、昭和2年に御陵ができたころは、高尾山と並ぶ観光の一大ポイントだったのです。したがって、この観光地にどうやって人を運んでくるか、客を輸送するかは、輸送業を営む者にとっては、思案のしどころであり、また格好の儲けのねたであったわけです。

そこで、まず先陣をきったのが、京王電気軌道でした。参拝するなら「京王」でと、東八王子まで参拝客をとりあえず運び、そこからは八王子市のバス会社と提携し、御陵まで今で言うシャトル便を運行させたのです。2番手は武蔵中央電気鉄道でした。昭和4年に八王子市内から甲州街道を使い御陵を経由して高尾山麓まで結ぶ路面電車を走らせたのです。

国鉄も黙っていません。中央本線を浅川駅(現在のJR高尾駅)まで伸ばして対抗です。これをじっと見ている京王ではありません。東八王子から浅川に沿って御陵まで結ぶ新線を計画したのでした。しかしこれには八王子市議会から「待った」がかかってしまいました。市街地が分断されるいうのが言い分です。市議会を相手に喧嘩はできないと、今度は北野駅から南へ廻って御陵へ進むルートを計画、なんと1年で北野−御陵前線を設置し、新宿からの直通運転まで始めてしまいました。

この御陵前駅は、それは立派なもので神殿風であったといいます。皇族の参拝も狙い、皇族専用の豪華特別列車まで建造し、さあいらっしゃいと待ち構えたまではよかったのですが、皇族方は、国鉄の東浅川駅を利用してしまい、戦争が始まるとこの線は廃線となってしまいました。また、武蔵中央電気鉄道の路面電車もなかなか利用客が伸びず、昭和13年には京王に譲渡、その1年後には廃線となります。わずか10年の短い路面電車でした。

尚、京王は、戦後、この廃線となった北野−御陵前線の一部路盤を有効利用し、高尾線を昭和42年に開通させました。


菅原道真公と高尾

初沢町の御衣公園には菅原道真公の高さ4.8m、重量6000kgのブロンズ像がある。
八王子市内におかれた初めてのブロンズ像だが、ここには深い歴史がある。

もともと菅原道真公は我が国の文神として昔から崇敬されてきたが、この文神像の建設計画が起こったのは、大正10年のこと。
当時の予算で35万円が計上され、制作は彫刻家の渡部長男氏に委嘱された。  
大正12年の春、原型は完成したがその年の9月の大震災で計画は中止された。昭和5年、鋳造半ばで放置された文神像を心痛く思った作者はひとりでこの鋳造を続行、完成させた。  
その翌年の昭和6年のこと、多摩大正天皇陵御治定記念事業の発議が起こった。

大正天皇は特に天満宮に御信仰があり、宮城前には楠木正成公、桃山御陵前には乃木将軍の像があることもあったので、大正陵には文神様がふさわしいとして文神様像を多摩御陵近くに建設することに決まった。
しかし、寄付で賄っていた資金が底をつき、計画は挫折。結局、作者の渡部氏がまた自ら工事を進め、昭和11年12月28日に除幕式を行うことができた。

さて、それでは菅原道真公ってどんな人だったのでしょうか。

天神様が学問の神様、受験の神様であることを知らない日本人はいないだろう。

菅原家は古代豪族の土師氏の出身で、代々学者の家柄で知られ、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったといわれています。
時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文書経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。
道真の父是善は菅家廊下(菅原家の私立大学)を率いる当代第一の学者であり、後に文章博士、参議(閣僚)を勤めました。
菅原道真は845年、是善の三男として、京都菅原院に生まれる。

わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。
14歳の時に詠んだ詩は、当時の第一級の詩歌を載せた『和漢朗詠集』に採用されている。 

18歳で式部省の実施する文章生、23歳で文章得業生、文章得業生の合格最年少記録を作り、数年に一人という超難関の国家試験である方略試に若冠26歳で合格、エリート官僚への道に進む。外国使節の接待などを担当する役所の次官となり、渤海国使節団の接待で頭角を現す。
30歳で従5位下に任じられ、貴族に列せられる。
この頃、島田宣来子を妻に迎え、兵部少補(軍務省次官)、民部少補(大蔵省次官)を歴任する。彼は税制や経済にも通じていた。

33歳の時、式部少補に転じ、文章博士も兼ねる。式部少補は国家の礼儀・儀式・文官任用・人事考課を司る式部省の次官、文章博士は学者の最高位である。文章博士は大学で、学問を教授するほか、国家試験の試験官もつとめたため、学閥間の争いに直面しなければならなかった。道真の背後には、菅家廊下の門人達が中央官僚として活躍しており、ここから出た秀才や進士は100名にのぼり、世に「竜門」と呼ばれた。

41歳の時、大国である讃岐守(香川県知事)に任じられたが、従4位以下では異例のことである。しかも赴任の際には太政大臣藤原基経や光孝天皇の拝謁を賜っている。また国司としての任務の他に、地方の庶民の実状を調査する問民苦使としての任務を兼ねた。慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。

当時、大化の改新から続いた律令制は財政的に破綻しつつあり、根本的な改革を行う必要に迫られていた。
当世第一の学者であり、優秀な行政官僚でもあった道真はまさに中央政府の期待の星だったのである。

京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。
50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。
55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられました。
しかし、その直後、急転して大宰府左遷となりました。
左遷の劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真公を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年(903)2月25日、なくなりました。
京より追従してきた門弟の味酒安行(うまさけやすゆき)が牛車に乗せ、当時の安楽寺に運び、墓の上に祠を建立、これが太宰府天満宮の起こりとなる。

漢詩文集に「菅家文草(かんかぶんそう)」「菅家後集(かんかこうしゅう)」、編著に史書「類聚国史(るいじゅうこくし)」「日本三代実録」(共同編纂)がある。

その後京の都に異変が続く。道真が死んだその年から立て続けに大雨による水害や旱魃が繰り返されるようになり、極端な気候変化の結果として飢饉や疫病が多発し多くの人が死んだ。皇太子の急逝・宮中への落雷・天候不順などが続き、道真の祟りによるものと認識された。
単なる自然現象なのだが人々はこれを「天神・道真」の仕業であるとした。この時、道真追い落としに関わった人間が立て続けに変死をとげたわけだが、死後30年以上も経過して起きた異変も全て「道真の崇り」と信じられていたのである。
最終的に天神・道真の崇り騒動が落ち着くのは993年。朝廷は道真を正一位左大臣にし、同年太政大臣にまで昇格させ、続いて1004年、一条天皇自ら北野神社に参詣し道真の霊に非礼を謝した。
この後、道真の怨霊はなりをひそめるが、彼の死後実に100年もの間朝廷を脅かし続けたのである。

ステゴドンゾウ

2002年夏、八王子市役所付近の浅川(鶴巻橋上流)で、170万〜200万年前の地層から、当時生息していた「ステゴドン」属のゾウとみられる牙や臼歯(きゅうし)などの化石約40点が見つかった。ステゴドンの化石がこれほど大量に見つかるのは珍しい。発掘調査した八王子市教育委員会などによる調査団(代表、松川正樹・東京学芸大助教授)は、歯の特徴などからステゴドンの新種である可能性も指摘している。

ステゴドンはアジア、アフリカ、中東に分布していたとみられ、約20種が確認されている長鼻目、ステゴドン科に属する化石ゾウで、第三紀鮮新世(約1200万年前)から第四紀更新世(約100万年前)に東アジアおよびアフリカに分布していました。現在のゾウやマンモスの祖先に当たる大型ゾウです。

ステゴドン属の化石は、日本では500万〜350万年前の地層からシンシュウゾウ(肩高3・5〜4メートル)、270万〜70万年前のアケボノゾウ(肩高2メートル)、50万〜30万年前のトウヨウゾウの3種類が見つかっている。氷河期に大陸から日本に渡り、環境に適応するため小型化したとみられる。

象化石として日本で最も多くみつかっているのはナウマン象ですが、ナウマン象が東アジアから日本に渡ってきて栄えたのは、約100万年前から2万年前です。
ステゴドンの発見は、日本列島と大陸との繋がりを解明する際の学術的資料として貴重です。

今回見つかったのは、牙(長さ約160センチ)2本と臼歯6本、ろっ骨や足の骨の一部など計約40点で、若い成獣とみられる。臼歯の長さから肩高は2.5〜3メートルと推定される。調査団は、臼歯のエナメル質がシンシュウゾウより厚く、アケボノゾウより薄いなど、シンシュウゾウとアケボノゾウの中間的な特徴を持っている――などの理由から、シンシュウゾウからアケボノゾウに進化する途中の新種である可能性があるとしている。

昨年12月、慶応義塾幼稚舎の相場博明教頭らが川岸付近で牙や臼歯の化石が露頭しているのを偶然発見、1月から発掘調査していた。調査団は全身の骨格化石が付近に埋まっているとみている。

尚、この近辺はメタセコイアの化石も多数見つかっている場所です。

ナウマンゾウ

1975年、日本橋浜町の地下鉄の工事の際に、なんと地中からナウマンゾウの化石が発見されました。現在、その骨格は、東京都高尾自然科学博物館に展示されています。ナウマンゾウは、現在生息中のゾウの中では、ほぼアジアゾウと同じくらいの大きさではなかったかと考えられています。牙は長く、先端は曲がり、体は全体が毛で覆われていたと思われます。
ナウマンゾウの生息していた更新世は、30万年から1万年くらい前であり、この時代にはいわゆる氷河期が4回にわたりあったと推測されています。ナウマンゾウの化石は、実は東京だけでも20数箇所から出土しており、そのころは大都市東京もナウマンゾウが闊歩する世界であったということになります。このころは、大陸と日本は陸地続きであったと考えられ、大陸からナウマンゾウやマンモスが、わたってきたのでしょう。
そんな太古の世界に想像をめぐらしていくのもまた面白いのではないでしょうか。

   

八王子城跡の怪

八王子城跡は、東京の幽霊目撃談の多いことでも有名な怪異スポットです。
中でも八王子城内にある御主殿の滝では、白装束の女が何人も滝つぼから顔をのぞかせていたという目撃談が後を絶ちません。
豊臣氏の天下統一に真正面から立ちふさがった関東の雄「北条氏」でしたが、この八王子城を豊臣軍が攻め込んできた折は、その主戦力は、北条氏の本拠地である小田原城に結集しており、八王子城もその城主である北条氏照が、同じく小田原で籠城しているところでした。八王子城は留守を守る老臣とその家族そして近隣から集められた豪族、はては僧兵といった前田利家のような優秀な軍勢にはとても歯が立てる状況ではもともとなかったのです。北条氏といえば、文字通り「小田原評定」で方針がさだまらず、これらの政治判断の遅れと情報の遮断により、八王子城は孤立無援に陥ったのでした。多勢に無勢、圧倒的な兵力の前に、力尽きた八王子城の北条方は、ほぼ全員が討ち死に。また女性たちは八王子城は流れる川の滝つぼに次々と身を投げ、これにより御殿谷川(城山川)は真っ赤に染まったといいます。
落城の惨劇を気軽に登ってきたハイカーに知らせようとでもしているのでしょうか。

八王子城にまつわる伝奇はこちらへ

東浅川駅

東浅川駅.....えっ、そんな駅知らないよ。高尾駅が昔、浅川駅というのは聞いたことがあるけれど...そうなんです。現在の高尾駅が浅川駅と呼ばれていたのをご存知のかたは多いのですが、東浅川駅となると、きっとそんな答えを返す方が多いと思います。でもちゃんと「東浅川駅」は、存在していたのです。
東浅川駅は、皇室専用の駅として作られました。現在の西八王子駅と高尾駅の中間にあり、昭和2年(1927)の2月の大正天皇の大葬の際、多摩御陵の最寄駅として開設されたのです。その後は、貞明皇太后の葬儀の際に霊柩列車が運行された際、あるいは皇族の御陵参拝用に活躍しました。当然、特殊な駅ですから、通常の駅名表示はなかったのです。

その後、昭和35年に東浅川駅は廃止され、その駅舎は、八王子市に下賜され「陵南会館」として使用されていました。しかし残念ながら平成2年に過激派による放火で焼失、今はわずかに残るホームの跡が、ここが駅であったことを窺い知れるだけです。
高尾駅近くになったら、よく目を凝らしてみてください。

薬王院のご利益

薬王院は、正式には高尾山薬王院有喜寺といい、創建は天平16年(744)で、 開山は行基菩薩といいます。行基菩薩は、薬師如来を自ら作り、お堂を建てて安置したといわれていますが、明治の神仏分離策により参道にあった大鳥居は撤去されたのですが、神仏融合のなごりを今になおとどめており、真言密教と修験道場としても広く一般に知れています。高尾山中腹の蛇滝に関しても、滝行そのものは今から三百年ほど前に道場として整えられ戦前から一般の人たちに開放されています。 定期的に通ってくる人もいるといるそうです。
ここでは滝が御本尊。青龍大権現です。その印を結び、口に経を唱えながら、御本尊と自分が一体になるよう観じるといいます。
     
しかし何といっても薬王院最大の行事は、毎年3月の第二日曜日に盛大に執り行われる火渡りの祭りです。ご本尊の飯縄大権現の衆生救済の請願による護摩修行で、信者、観光客が見守る中で、無病息災、厄除けなどたくさんの願いを込めた護摩木が燃え盛る炎のなかに次々とくべられ、その上を白装束に身を固めた山伏、修験者に続き、信者が素足で火を踏みながら渡っていくのです。この護摩の火を渡ると厄災を焼き尽くし無病息災のご利益があるといわれています。ここで授与される梵天札のお守りは火渡りの浄火によって清められたもので火防・厄除けの霊符といわれています。

また薬王院には「盗賊耳付きの板」と呼ばれる板があります。薬王院に泥棒が侵入し羽目板に耳を付けて中の様子を伺っていたとき仏の力によって耳が離れなくなり仕方なくみずからの短剣で耳を切り落として逃げたという言い伝えが残っています。この板にお参りしてその御札を家に奉っておくと盗難除けのご利益があるといわれています。

そして、今高尾で若者を中心に人気なのが、縁結びのお守りです。
鈴がついたお守りとご縁があるようにと赤い糸のついたきれいに磨かれた5円硬貨が一組になっているものです。鈴のついたお守りは、いつでも自分の身につけておき、また5円硬貨のほうは、この境内に「愛染堂」に自分の意中の人とうまくいきますようにと願いを込めて結んでおくとか。

  

メタセコイア化石林

浅川に沿って堤防上を歩いていくと「メタセコイア」の説明板があります。メタセコイアは、太古の植物として有名で、日本を始め北半球で化石が知られていましたが現存種はなく、このため絶滅種だと考えられていました。ところが、1943年に中国の四川省で自生(アケボノスギ)が発見されたのです。アケボノスギは今では広く世界各地で栽植されて、公園や広場などに植えられています。メタセコイアの名は、本来は植物分類上の属の名ですが、現在、残存している本属の植物はただ一種なので、その現生種(アケボノスギ)もこの名で呼ぶことが多いようです。アケボノスギという和名のもつ意味は深く、現在の植物景観が形作られた、そのあけぼのとも言える時代にすでに存在していたという推察によるものです。

高尾自然科学博物館にはメタセコイアの化石が展示されていますが、これは八王子市を流れる北浅川で発見された楢原化石林の中の一株で、きわめて貴重なものです。近在の人たちは、この奇妙な古株の一部を切り出し燃料として使っていたようですが、これがメタセコイアの化石であることが確認されたのは、戦後20年経った昭和42年のことでした。清川町南の北浅川に中央自動車道の橋脚が立ち始めていたころ、当時多摩の地質に興味を持っていた高校教師が、黒い円形に年輪が見える化石を見つけたといいます。専門家の調査が始ま、発掘が行われた結果、この範囲が170万年前から200万年前の林がそのまま残っていた「化石の林」であると認められたのです。
平成3年に、浅川の河川敷の補修工事が行われ、この貴重な化石林を一部壊さねばならないことになり、地元の強い要望で説明板などが設置されたようです。メタセコイア化石林を見ようとすると、八王子市役所北の清川2号公園あたりから浅川河川敷に降りると、この一帯が露出の多い化石林だ。

ところでさきほど世界各地に植えられているとお話しましたが、実は高尾にも植えられているのです。高尾山では、ケーブルカー高尾山駅そばの霞台園地の斜面に植えられていますので是非、一度眺めて大昔の様子を想像してみてはいかがでしょうか。 何でも昭和天皇も愛でられたそうで、林野庁保存林には何度も行幸された記録が残っているそうです。
            
ちなみに、この木につけられた標識の説明によれば「私の名の「メタ」はギリシャ語の「変形」、「セコイア」はインディアンの酋長「セクイアー」の名から来ています」とのこと。


夜景でデート

高尾山というとハイキングや遠足を思い浮かべてしまいますが、実は恋人たちにとっても最高のデートコースなんですよ。

八王子市、日野市、相模原市から、空気が澄んでいるときには、八王子市街の明かりの向こうに、新宿の高層ビルや東京タワー、横浜のランドマークタワー、ベイブリッジといった関東の主要な夜景が一度で鑑賞できます。夕闇に三浦半島の向こうに房総の山々も見ることができます。

大胆にも「1000万ドルの夜景」などと自称する高尾山ですから、やはり努力して、眺望のよろしい場所を確保するのが大事。夜景がいわゆる「まるで宝石のようだね」という感じですね。
その意味では、都内一の(一応東京都です)夜景スポットです。ハイキングの方たちは、夕暮れにはもう山を下りて行きますので、週末でもあまり人がおらず、二人きりで関東平野の夜景を鑑賞することができます。満天の星空の下でふたり・・・ ロマンチックじゃありませんか。

また、夏は、夜景を見ながら飲み放題・食べ放題の「高尾山ビアマウント」も楽しめます。
高尾山の標高500メートル地点で営業する「高尾山ビアマウント」は、ケーブルカーを降りるとすぐに目に付く樹林におおわれた尾根にドーム形のビアホール。うまいビールを目指して、緑ゆたかな自然と対話しながら、ゆっくり山上を目指すもよし、ケーブルカーでワイワイ登るもよし、それは皆さんの体力次第です。

ところで、残念ですが、自然保護の立場から、樹木の伐採が制限されているため、山頂付近は眺望がさえぎられて視界が良くありません。ケーブルの山頂駅にあるこの展望広場からの夜景がおすすめです。


横山党

横山党は、武蔵国府中の小野郷の小野氏を母体とした、「武蔵七党」随一の大族です。現横山町から多摩丘陵一帯相模北部、甲州郡内、北武蔵と広範囲に分散していたようで敏達天皇8代後裔小野氏の子孫、武蔵国造の子孫と称するが系譜は不詳。

八雲・八幡神社境内に横山神社が祭られ、妙薬寺境内に供養塔がある。横山とはそもそも万葉集の「多摩の横山」にもあるように当時多摩丘陵を指した言葉で、横山党はこの地方の代表的な武士団とされる。

(尚、武蔵七党という名称は、この地域の武士団の総称として使われますが、各党間でつながりが深いわけではありませんでした。七党といってもそれ自体が不明確で、横山、猪俣、児玉、丹、西、野与、村山、という説がある一方、横山、猪俣、児玉、丹、西、綴(つづき)、私市(きさい)、あるいは、横山、猪俣、児玉、丹、野与、綴、私市、という説もあります。)

天永四年(1113年)三月横山党の二十余人が相模国の愛甲内記平大夫を殺害して、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に追討の宣旨が出されました。この事件は横山隆兼の頃とされていますが、横山党は、何と、3年間も官使に抵抗した後、和解したといいます。気骨のある一族であったかもしれません。


保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起こり源氏が勢力を失い、平氏の時代となりますが、保元の乱では横山党を中心とする武蔵武士が活躍しました。しかし、平治の乱では源氏は敗れ、源氏配下の武蔵武士は国へ帰りることになります。

しかし、1192年、源頼朝が、鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山庄の所領を保証され、また、横山氏の女を母とする梶原景時は元八王子村に所領を与えられるなど、八王子周辺は頼朝政権の所在地である鎌倉の防衛基地の一つとなりました。

このように横山党は頼朝の源氏政権樹立に参画したのですが、源氏三代で滅ぶと北条政権によって粛正されるはめに陥るのです。
頼朝没後、頼朝の手足となっていた梶原景時が粛正されたのを手始めに、畠山重能の子の重忠と小山田有重の子稲城重成が誅殺され、そして和田義盛もまた滅ぼされたのでした。この和田合戦に愛甲・海老名・渋谷・横山氏といった横山党がこぞって和田方についたが、敗れて横山党は絶滅したのでした。

その後の横山氏の領地は御家人大江氏に与えられました。

路面電車

現在は、高尾には京王とJRが伸び、交通も便利な観光地となっていますが、ここに至までは、数々の歴史があったのです。

八王子には、すでに1889年に甲武鉄道が新宿―八王子間(中央線)を開通させ、さらに甲府へと伸び、1925年には玉南電鉄が府中―東八王子間を開通させようとしていましたが、両方の鉄道とも駅は市街の東の外れに位置しており、市中心部との連絡は主にバスに頼っていました。

一方、八王子市内と高尾山を結ぶ線路は、もともとは1923年設立の「高尾山電気軌道」という会社によって計画されていました。

高尾山は、当時すでに行楽客も集めるようになっていました。そこで、高尾山電気軌道は、1925年までに、八王子駅前―高尾橋間および横山町―東八王子駅前間の路面電車の免許を取得しました。そして、1926年には会社名を「八王子電気鉄道」と変更しました。

同じ頃、八王子市は、独自で市営の路面電車を計画していたもののその計画を断念し、八王子電鉄による市内への路面電車敷設に合意。政府へ八王子電鉄の軌道敷設認可の促進を陳情しています。その結果、1927年に大和田橋―浅川間の軌道敷設の認可がおりました。

さて、1927年に大正天皇多摩御陵が高尾に造営されたことから、その参拝客、1926年にケーブルカーが開業した高尾山への行楽客、また、所沢線の貨物輸送などを当て込んで、新会社の「武蔵中央電鉄」が1928年に発足しました。

この会社は、翌1929年に八王子電鉄を合併。多摩陵造営に伴って拡幅されていた甲州街道の浅川―追分町間から工事を進め、同年の11月23日、新嘗祭の日から営業を始めたのでした。12月には追分町―新町間2km、翌1930年の3月浅川駅前―高尾橋間1.8km、12月新町―東八王子駅(現京王八王子駅)前間0.66kmと、1年をかけて路線をほぼ開通させたのです。

しかし、その後の金融恐慌、世界恐慌により、また1930年には国鉄が浅川(現高尾)まで電化し省電の運転を開始、翌年年3月には京王電気軌道が北野から御陵前までの御陵線を開通させて新宿からの直通電車の運転を始め、さらには並行するパスにも客を奪われ、経営は悪化する一方でした。

その頃、京王電気軌道は八王子一高尾間の交通の一元化を狙っていました。
そのために不可欠な武蔵中央電鉄の鉄道及ぴ八王子市街自動車のバス路線の買収に着手していましたが、1937年5月、武蔵中央電鉄は京王電気軌道への合併を決定し、1938年3月には、経営権は京王電気軌道に移りました。

その後、京王は車庫前一武蔵横山(御陵線との接続駅)〜高尾橋間を、御陵線の延長のような形で運行し始めました。しかし、経営は好転せず、1939年6月30日、この区間も運行を休止,すべてバスに転換され、レールは撤去されたのでした。











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