「皆さん こんにちは! 私は「高尾博士」。高尾のことならなんでも知っているんだ。高尾の楽しい話、知ってるとみんなに自慢できる(!?)話をご紹介しましょう。知りたいことをクリックしてご覧なさい。」
皆さん、アザミのこと覚えていますか。アザミといっても野の花のアザミではありません。 平成11年の6月中旬から約二カ月にわたり、東京都港区麻布などでサル騒動を起こして捕獲された雌のニホンザルのことです。あのアザミがが、平成15年10月に死んでいたことが分かりました。 「アザミ」と名付けられた彼女は、高尾山自然動植物園内のサル園(八王子市高尾町、高尾登山電鉄経営)に移されていました。同園は慎重にサル山の群れに順応させようとしたが、群れに加わったその日にオスにかまれた傷が原因。「都会育ち」のアザミは最後までサル社会になじめなかったようです。 港区で捕獲され、一旦は福生市熊川の多摩動物総合病院で検査を受け、都では野生に戻す方針だったのですが、同病院から、「人に慣れてしまったので野生に戻すのは無理」と進言されたこともあり、受け入れ施設を探し、高尾山の「サル園」が引き取ることになったのです。一般的に4、5歳を超えた大人のサルを別の群れに入れるのは極めて難しい。人に飼育され、社会的な振る舞いができないサルの場合は一層困難になる。DNA鑑定で「南アルプス」出身と分かり、ペットとして飼われていた可能性が高いとみられていた。 同園では、アザミをサル山の群れに入れるタイミングを探っていました。 捕獲後、環境の変化によるストレスからか、落ち着きがなく歩き回ったり食欲もなかったそうです。半年は群れから離れたオリに単独で飼い、次に群れ近くのオリで慣らしたが、オリに近づくオスの腕にかみつくなどしたため、再び離れたオリに戻しました。このオリでアザミは、母親のない子猿の面倒を見るなど母性愛に目覚め、ほかのメス4匹ともコミュニケーションが取れていたという。 同園は改装工事のため、今年6月からサルをサル山から移して飼育し、10月に再びサル山に計30匹のサルを放した際、アザミも群れに入れることにしました。しかい、アザミはサル山に初めて入った10月6日、オスとのけんかで左腕や足などをかまれた。致命傷ではなかったが、14日になって敗血症を起こし、急死したのです。 篠裕之園長は「猿は群れの中で社会性を身に着けるものだが、アザミにはその経験がなかったのだろう。サル山に入れる最後のチャンスと思ったが、あだになってしまった」と話している。(毎日新聞) 高尾山の新しい人気者になっていたアザミですが、非常に残念です。冥福を祈ります。
高尾山に訪れた方達からは、次の二つの声が聞かれます。 ひとつは「高尾山はいつ来てもごみがなくてきれいね」そしてもう一つは、「なぜ高尾山にはごみ箱がおいてないの。不便ね。」 一見、矛盾しているようなこの二つの事柄は、実は高尾山を愛する地元の人達の悪戦苦闘の歴史をご紹介すれば、納得がいくことと思います。 都心からも近いところにこのような自然がそのまま残っている高尾山は、休みともなるとたくさんの方達が自然に触れようとやってこられます。一頃は、山頂周辺には、決してそのままでは土にかえってはくれない空缶やビニールが散乱し、いたるところでごみの山を作っていました。片づけても片づけても、心もとないハイカー達のぽい捨てによって、ごみが消えることはありませんでした。30年に渡る悪戦苦闘の結果ごみ箱やごみ穴を一切なくしてしまえばという、またなんと画期的というか、一見、無謀な試みを思い付いたのです。早い話が、持ってきたごみは家まで持って帰ってもらおうという、考えてみればしごく当たり前で、一番簡単な方法なのです。 自然を求めて高尾山に来る人ならばきっと理解してくれるだろうと最初はおそるおそるのスタートでしたが、結果はみてのとおりです。もっとも、折角、山から持ち帰ったのに、ごみ箱を見つけるとごそごそとリックサックからごみを取り出し捨てているハイカーも多いとJR高尾駅の構内のごみ箱を掃除するおじさんはため息をついていました。 皆さんはそんなことはないですよね。 さて、そんなわけで山がきれいななれば、そこに生きる植物や動物もきっとすくすくと育ち、人も元気になっている。そんな願いをこめて、平成5年に山麓広場と山頂にお掃除小僧さんが建立されたのです。お掃除小僧さんは、ごみ持ち帰り運動発祥の地のシンボルだったのですね。
山麓広場前の小僧さん 山頂の小僧さん
高尾山薬王院は、正式には高尾山薬王院有喜寺といい新義真言宗宗智派に属しています。 ここでちょっと仏教と真言宗についてお話しましょう。仏教は紀元前五百年前後にインドの北部地方にて、釈尊が開かれた宗教です。釈尊は覚者・仏陀・釈迦牟尼とも尊称されています。釈尊の教え(仏教)は十大弟子たちによって、大きな教団として発展していきました。その後、世界の歴史二千数百年の流れのなかで、仏教は世界各国に伝わり世界の宗教となりました。真言宗は仏教の歴史的なあゆみのなかの大乗仏教として、インドから中国・日本と三国の八人の高僧によって伝授されたとされます。 それらの高僧は「真言宗八祖像」としてまつられています。日本では弘法大師空海によって真言宗は立教開宗されたものであり、すでに千二百年の歴史があるわけです。 平安時代の中頃、弘法大師・空海(774−835) が真言宗を始めました。弘法大師の当時の日本の仏教は、奈良の諸大寺において官立の学問として研究することが主でした。大師も中国の哲学や思想や奈良で仏教についても学びましたが学問だけの仏教では人々の悩みや苦しみを救うことができないのではないかと疑問をいだいたのでした。 そして、山野を躯け巡り、厳しい修行をなし、ついに「大日経」という真言密教の真髄を説いたお経に出会ったのでした。その後中国に留学し苦労の末に恵果和尚から「大日経」が説くこの世界にあって人々を悟りの世界に導くことができるという究極の仏教を伝えられました。それを日本に持ち帰った大師は真言宗を開き京都の教王護国寺(東寺)と高野山を拠点に教えを広めていったのです。 真言宗智山派の総本山は智積院といい、京都の東山七条にあります。智積院の名は根来山内に建てられたお寺に由来しています。正応元年(1188)に大伝法院や密厳院が根来に移築され、学徳に秀でた頼楡僧正により根来山はいよいよ発展し、天正年間には坊舎が二千余も立ち並んだといわれています。後に高野山の教えは古義、根来の学風は新義といわれました。
飯縄権現は、平安時代、長野県飯縄山上(現在の飯綱山)に奉られた飯縄権現を原点があり、ここから全国に飯縄信仰が定着していったと考えられています。 永和元年(1375年)京都の高僧沙門俊源が入山し高尾山中の琵琶滝で苦行修行を行い、不動明王の化身とされる飯綱大権現の霊神を感得し、それまで荒れ果てていた寺院を復興、高尾山復活の道を開いたとされている。この不動明王は、インドでは「アチャラナータ」と言い、シヴァ神の異名がそのまま仏教に取り入られ、不動ないし無動と訳されている。密教では、常住金剛とも呼ばれる。明王とは、如来の教えを守り、仏教に敵対する神々や人々を罰し、随順させる働きがある。 また、明王の「明」は、真言を明呪すると言う意味を持ち、真言を唱え得ることの出来る、強力な威力を表している。五大明王の主尊として中央に座し、大日如来が憤怒した姿ともされ、一面二臂で、火焔光を背にし、悪鬼を打ち払う剣と、罪人を縛する索を持っている。また、矜羯羅・制多迦の二童子を始めとした、八大童子と呼ばれる眷族を従えています。 飯縄権現は、「飯縄法」を伝授するという信仰が古くからあり、戦国時代には武将達に受け入れられ、川中島の戦いで有名な越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄、或いは相模、武蔵の後北条の武将達のなかに信仰が広まっていきました。八王子城主北条氏照も、武田軍との戦いの中で馬上より振り返り、高尾山に鎮座する飯縄大権現に武運を祈ったとも伝えられています。 高尾山薬王院の御本尊であるこの飯縄大権現は、先ほども触れましたように不動明王を仮の姿として衆生を救済する徳を持った仏神といえますが、この姿を見ると驚くのは、不動明王のほかに全部で5つの仏神が合体した姿なのです。 その本誓は、ひとつは、向背に火焔を負い、左右の御手に剣と索とを持てるは不動明王の御本誓を現し、悪魔を退治し、慈悲の智慧を以て種々の煩悩病苦を焼き尽くす、二つは、衆生に富貴を授け疫病を除き夫婦和合の徳を施す心を持つ歓喜天の心を抱きて求る所の利益を施す、三つは鴟啄と羽翼ある鳥の姿は自在に空を舞い衆生救済を施す迦楼羅天(カルラ天)の飛行自在の徳を表す、四つは白狐に乗って先を見通す力を授ける茶枳尼天(ダキニ天)の福を授く、そして五つは白蛇を頂くは五穀豊穣、商売繁盛、福寿円満を授ける宇賀神の宝珠を、弁財天の愛嬌を与え給う、の五相合体なのです。
1号路の浄心門の先、神変堂を過ぎると道が二手に分かれます。男坂と女坂です。 その名の通り、男坂は女坂に比べて少々足にこたえるのでと女坂を選ぶ人が多いのですが、私はずばり「男坂」を選んで欲しいと思います。男坂には「百八の階段」があります。 百八という数は、日本人にはおなじみですよね。階段手前には下の写真の高札が立っておりここには 「この石段は、百八あります。百八とは人が生きていく上での限りない悩みや苦しみの心を意味しています。この百八段の石段を力強く踏みしめて登ることでそれらの苦しみを乗り越えていくことができる」といったようなことが 書いてあります。 皆さんどうぞ力強く踏みしめて階段を登ってみてください。 百八の階段を上った頃にはきっと皆さんの煩悩も取り除かれていると思います。 ところで、そもそも百八の煩悩って何かご存知ですか。ものの本によりますと煩悩には根本煩悩と枝末煩悩があり、根本煩悩は貪、瞋、癡、慢、疑、見の六煩悩、枝末煩悩は根本煩悩に伴って起こる従属的な煩悩といわれています。そしてそれらを、仏教の真理に迷うものを見惑、現象的な事物にとらわれ迷うのを修惑、と分け、見惑は見道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、修惑は修道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、とされています。 まあ、そんな堅苦しい話をしていると、もう腕白な子供達は、本当に百八あるのかと一生懸命数えて元気に登っていきます。大丈夫ですよ。本当に百八あるんですよ(私も始めて来たとき数えました)。なお、のぼりつめるとそこは句碑や歌碑が参道の両側に並んでたっており、これもまた読みながら、高尾の歌人達に思いを馳せてください。
高尾駅の北口、甲州街道に面する旅館「きくや」には、昭和25年開業。 30年代には「乗り越し旅館」のあだ名がつき、15人ほど泊まれる客室はいつも満員だったそうです。 駅から見える屋上看板の電灯がついていれば「空室あり」のサインとのこと。 午前0時55分、終点・高尾駅に着き、大半が降りた後、座席に残された酔客が必ず数人。眠っているうちに下車駅を通り越し、気が付くと高尾山が目の前にある。上りの最終電車は24分前に出てしまっており、もうどうしようもない。 旧国鉄時代には、この到着ホームには、リヤカーが常備されていたそうだ。泥酔した客を乗せて駅外に運ぶのに使ったそうだが、さすがに「客を物扱いしている」と苦情があり、民営化の頃からか使用されなくなったとか。何でも駅前に待機するタクシーの運転手達はこのリヤカーを『特別快速』と名付けていたとか。 さてここが思案のしどころ。立川まで6000円、三鷹までだと10000円。それではと駅前に出てみると「きくや」のネオン。どれほどか皆さん救われたことでしょう。 きくやホテルのホームページ
さて、ケーブルカーっていったいなんでしょう。 ケーブルカーは、山の斜面など急勾配の線路を登るために車両にケーブルを接続し、車両をケーブルで引き上げる鉄道です。 車両は、横から見ると平行四辺形、車内も駅のプラットホームも階段状になっています。ケーブルカーの車両は自ら走行するのではなく、山上からケーブルで車両を引っ張り上げるため動力用モーターは積んでいません。ですから、架線がなくても動くのです。 高尾山の玄関口に高尾登山電鉄の「清滝駅」があり、標高四百七十二メートルの「高尾山駅」まで、つるべ式ケーブルカーが運行しています。 徒歩だと山頂まで一時間半はかかるところをケーブルカーなら高尾山駅まで六分で行き、そこから歩いて約四十分で頂上にたどり着ける。 斜面の日だまりにスミレの自生地があったり、四季に映える様々の木々を車窓から眺めて登っていくのは本当にが楽しいですね。 ところで清滝駅の開設は昭和二年です。当時、わが国で開業していたケーブルカーは生駒鋼索鉄道だけでした。高尾山での建設工事は大正十四年に始まりましたが予定地の崩壊事故などで完成までの道のりは険しかったようです。 工事中、文豪・中里介山 が沿線に草庵を構え、「大菩薩峠」を執筆中だったこともあり、この文豪「発破の音がうるさい」といって、憤然とこの地を去ったというエピソードが残されています。 旧駅舎は待合室が狭いうえ、乗車券売り場が待合室の一番奥にあったため混雑時に乗客をさばくのは本当に苦労で、昭和三十九年、一人乗りリフトの営業や京王線の高尾山口乗り入れを機に増改築され、さらに五十年に改造を加えられたのが現在の現駅舎です。 乗車券発売所は右端に移され、窓口も五カ所設置された。待合室のスペースも旧駅舎の二倍以上。壁面や柱には丹波石が張られ、近代的な装いの中にも落ち着いた雰囲気 の駅舎に生まれ変わりました。戦時中の十九年、企業整備令で線路などの機材供出を求められ、ケーブルカーも一時休業しましたが二十四年十月に「高尾観光」として復活し、二十七年五月に現在の社名になったのです。 現在は周辺に約三十軒の商店が並ぶ観光地ですが、当時は商店は三軒しかなく京王線開通でにぎわうようになったとのこと。 さてさて、話は変わって、先ほど高尾のケーブルカーは「つるべ式ケーブルカー」だとお話ししましたが、このつるべ式は、2組の車両を、ケーブルの両端に繋げ交互に山上と山下を往復する方式です。中間のポイント(分岐器)で車両がすれ違います。これを単線二両交走式といいます。日本のケーブルカーはほとんどこの方式です。これに対して「循環式」という方式があります。これは、循環しているエンドレスのケーブルに車両を繋ぎ、停車する時は、ケーブルから車両を切り離し停車する方式です。複数の車両を運行する事ができるという利点があります。サンフランシスコのケーブルカーは、この循環式ですね。
高尾山薬王院への参拝は、古くから多くの「講」が作られ、この講中によって代々信仰が受け継がれていきました。江戸中期には講中登山の流行が起きました。大山詣りがそれです。もともと我が国には山岳信仰がありました。天狗信仰の大雄山、迦葉山などとともに関東九山の一つとして、高尾山の講中は100を超えると言われていました。しかし講中の最たるのものはやはり「富士講中」でしょう。高尾山薬王院の記録によると室町時代に富士浅間神社を勧請したとの記録、つまりは富士山のご祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)にご出張願ったとの記録があります。それは、遠く富士山まで行かずとも高尾山にお参りすれば同じご利益があるというものです。高尾山の名の由来そのものが、高天ヶ原(タカマガハラ)、つまり富士山から遠く連なる山々の「尾」にあたるところから「高尾山」と呼ばれるようになったという説からも富士山と高尾山の密接な関係が窺い知れますね。 ところで、高尾山薬王院から甲州街道の小仏峠に通じる道を昔は「富士道」といっていましたが今は廃道となってところどころにしかその面影をみることはできません。富士信仰の人々がこの霊峰を仰ぎ見ることのできる高尾の富士浅間神社を目指して通った道です。 また江戸末期から明治にかけては、高尾山護摩講が作られたくさんの信心深い人々が薬王院に参拝しました。また江戸町民による百味を奉納する「百味講」や東京吉原の鳶職によって高尾山参詣講として行われ、八王子の鳶職がこれを受けて続けるようになったといわれる「高尾山永久お花講」等からも高尾山の講の多さを物語っていると思われます。薬王院によれが、現在の高尾山の講は約500、参拝集団としては800を超えているということです。
桜といえば3月から4月にかけて咲くもの・・・そんなふうに決めてかかっている方はいませんか。高尾にある森林科学園のサクラ保存林に来ていただくとその答えがわかります。 多摩森林科学園は、昭和41(1966)年、サクラの老化と衰退を防ぎその復興をはかるため日本全国のサクラ品種の収集や保存、研究を開始しました。面積約8ヘクタールの保存林内に、250品種、2000本におよぶサクラがあります。 サクラは、種類によって花期は違いますが、一般的には2月の下旬から5月の上旬まで様々なサクラが開花します。しかし沖縄県から台北にかけてあるカンヒザクラは1月から2月に、東北地方から北海道にかけて多いオオヤマザクラは5月から6月ごろまた高山にあるタカネザクラは7月上旬、北海道東部に多いチシマザクラも7月ごろ咲きます。また変ったものでは秋から冬にかけて咲く品種もあります。また花の色もいわゆるピンク、いやサクラ色ではなく緑や黄色のサクラもあるのです。 多摩森林科学園は、いわば、ここを訪ねるだけで日本全国の全種類のサクラが見られると言うことですね。八重咲きのものが多いようで都心からやや遅れて見頃になるようです。なお保存林内には幾つかの遊歩道があり、全てのコースを回ろうとすると、約4キロメートルほど歩かなければなりません。しかし山あり谷ありの各コースには様々な色形のサクラを見ることが出来、疲れなんか吹っ飛んでしまいます。
高尾山の杉並木は、信仰の荘厳な雰囲気を出しており、日光の杉並木や箱根の杉並木とはまた異なるものです。山全体も杉で覆われており、日中でも日が射し込んでこない高尾の山が、信仰の山であることを感じさせます。 参道には、杉苗の奉納者の名がずらりと並び、今なおその杉が増え続けていることがわかります。しかし、花粉症の方々にとっては、この名札に、いまいましさを感じる方がおられるのではないでしょうか。確かに、花粉症の方が、その季節に高尾を訪れることは、自殺行為といえるかもしれません。 しかし、近年、杉の花粉の害が騒ぎ立てられ、国もどうやら植林に杉を避け始めたと報道されるにもかかわらず、高尾山はなぜあえて杉の植栽を続けているのでしょうか。高尾山の杉の植栽には、実は特別な理由があるのです。その一つは宗教的なもので、いわゆる古来のご神木の保存にあります。 沿道、境内にはしめ縄の巻かれた老大木が多く見られると思います。高尾山の顔ともなっている「蛸杉」弘法大師の伝説のある「飯盛杉」そして山頂近くで見られる「江川杉」、高尾信仰と杉はきってもきれないものなのです。もう一つは、資材としての植栽で、薬王院ほか将来の改築、修築のための準備と、護摩、なで木のための材料としてのものです。基本的には、これらは、台風や雷に打たれ倒れた杉や、いわゆる間伐材を使いますが。大量に必要な場合は、伐採することもあるそうです。
薬王院飯縄権現堂に登っていく階段の両側の岩斜面には青銅で作られた三六童子の立像があちこちに立っています。 これらの童子達は、すべて不動明王の従者であり、ひとりひとりが1千万人の従者をもっていると仏説聖不動経に書き記されていいるそうです。 愛らしい姿に、自分や自分の子に似た童子を探す方達もいらっしゃいますが、実は、言ってみれば不動明王の精鋭部隊長とでもいうところでしょうか。 尚、高尾の山麓から薬王院までの参道には同様な童子が、昭和63年に建立されています。 36童子 ご真言 1 矜迦羅童子 こんがらどうじ おん ばらさき たつたり そわか 2 制叱迦童子 せいたかどうじ おん しゆと とば うんばつた 3 不動恵童子 おん しゆまり ばさら だんかん 4 光網勝童子 おん そば ろぎ ばった ばった そわか 5 無垢光童子 のうまく からばん きりく 6 計子爾童子 おん かく まり そわか 7 智慧幢童子 おん そんば さんば さんばんそわか 8 質多羅童子 うん たらまち しつたら うんばつた 9 召請光童子 おん まり ままり しゆまり しゑまり とどまり ばつた 10 不思議童子 おん ろけい そわか 11 羅多羅童子 おん らた らた らま そわか 12 波羅波羅童子 おん はら しつ びたまに あんをん そわか 13 伊醯羅童子 おん だぎに ゑい そわか 14 獅子光童子 おん まり たりたり そわか 15 獅子慧童子 おん まい たりや そわか 16 阿婆羅底童子 のうまく けん さくそわか 17 持堅婆童子 おん まんしん だらに そまや そわか 18 利車毘童子 おん しばれい そわか 19 法挟護童子 おん ぎやきてい とんばんば きりく 20 因陀羅童子 おん いんだらや そわか 21 大光明童子 のうまく さまんだ かんまん きりく 22 小光明童子 おん しんばら そわか 23 仏守護童子 おん あぼぎや ばだらや そわか 24 法守護童子 おん きまれい そわか 25 僧守護童子 きりく さんばん たらく 26 金剛護童子 おん だきに ゑい きりく そわか 27 虚空護童子 おん めいが しやに へんばら うん そわか 28 虚空蔵童子 おん そんやば そんやば そわか 29 宝蔵護童子 おん まか きやらば そわか 30 吉祥妙童子 おん びだまや そわか 31 戒光慧童子 おん さらいて さらいて そわか 32 妙空蔵童子 おん こうなん とくじつ そわか 33 普香王童子 おん あい びしやに はつた はつた そわか 34 ぜんにし童子 おん はんめい ばざやら きしやうん 35 波利迦童子 おん けん まにまに そわか 36 烏婆計童子 おん たらまや きりく そわか <PR> 楽天トラベルは24時間オンラインで即時予約OK <PR> 記念の日や特別な日、またなんでもない時でも、特別な場所で特別な時間を過ごしたい時。贅沢な時間
裏高尾バス停付近には八王子初の電灯事業として稼動した発電所があることを知る人は少ない。 明治29年(1896)に当時の「八王子電灯(株)」が、ここ摺差に水力発電所を建設し、市内に電力の供給を始めたのが、我が国の水力発電の先駈けと言われている。 水源は小下沢の山中、通称ショイダシと呼ばれる地点に堰を設けて水を塞ぎ止めた。 中腹に水路を造り、途中矢倉沢の水を水路に取り入れ、トンネルや松板で作った筧(かけひ)で水を流して発電所まで送った。 こうして、作った電気は八王子市内に送電された。 しかし残念なことに翌明治30年に大火が発生し、大半の電力設備を焼失してしまったのです。 このため、市内の横山町に今度は火力発電所を建設したことで、摺差の発電所は、開設1年にて、その役目を終わったのです。 現在は、小下沢の山中にこの時発電の水路として使用された石垣の一部や隧道の一部が残っており、当時を偲ばせてくれます。
薬王院への参道の両側にある杉の苗木の奉納者名の板に混じって、何やら意味の深いお言葉を発見しました。うん〜んとうならせる含蓄のある言葉に、妙に納得してしまいます。いかにそれを並べてみました。さて、カッコに入る言葉を当ててみてください。自分の胸に手を当てながら.........
599mの高尾山頂には二等三角点があります。山頂の茶屋の前にありますのですぐに気がつくと思います。ところでこの二等三角点て一体なんでしょう。 小学校の頃、社会で習っていますよね。忘れてしまったあなたにお教えしましょう。 三角点は、みはらしのよい山の上でよくみられます。しかし、三角点は山の頂上をしめすしるしではありません。また、わたしたちが見られる三角点はほとんどが四角い柱石です。にもかかわらず三角点というのは三角測量をするために用いるからです。 地図をつくるためには、地図にかかれる場所の正確な位置がわからなければなりません。この位置を測量するために必要な基準点が、三角点なのです。高さをきめる基準点は、水準点です。三角点の高さは、この水準点をもとにして、きめられているのです。そして三角測量のために置かれた不動の位置を三角点と言うのです。 三角点は、一等から四等まであります。その中でいちばん精密に位置が測られているのが、一等三角点です。日本ではまず三角形の一辺が45キロメートル程度になるよう一等三角点を設置し全国をカバーしました。 日本全土に969点あり、地図づくりの土台となっています。さらこの一等三角点をもとにしてに25キロメートル程度の間隔となるよう一等三角点補点を設置し、さらに細かい三角網をつくるために二等三角点、三等三角点、四等三角点を設置し地形図がつくられました。三角点間の平均距離はおおよそ二等で8〜10、三等で3〜4、四等で1.5〜2キロメートルになっています。 地図での三角点の記号表示は地形図二万五千分の一では全部、五万分の一 では三等以上(四等は「標石のある標高点」として三角点とは別の記号で表されていま す。)また地勢図二十万分の一では二等以上が採用されます。
高尾山の表参道、金比羅見晴山手前には滝があり、「古滝」と呼ばれています。 昔は「布流滝」と書いたそうですが、高尾山に参詣にきた者はここで垢離をとったといいます。その後、登山道に新しく「清滝」ができたために、こちらを「古滝」と呼ぶようになったといいます。 尚、高尾山には、この布流滝のほかにも、全部で4つの滝があり、いろいろな伝説や言い伝えがあります。興味のある方はどうぞ。
戦国時代末期、北条氏照が支配した地域は、旧大石領の多摩西部・入間西部・高麗・新座、現町田市の小野路・小山田から相原・上溝・下溝・落合・座間、さらには、江ノ島や横浜。また東は現品川区の荏原平塚、下総北部の関宿、古河から小山・榎本と広範囲であった。氏照は、各要所に城を構えており、その数は6城であった。武蔵の竹山城、水見城、関宿城、栗橋城、小山城、江之本城を総称して氏照の6城といいます。尚、竹山城は実は、八王子城の別称です。
八王子城主北条氏照の父君とその兄弟達について触れてみましょう。 北条の三代氏康は、領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を固めるとともに、軍事面でも天文十五年の河越夜戦で宿敵扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、関東から両上杉の勢力を一掃している。北条氏が武蔵を確保し、さらに関八州の戦国大名へと飛躍していくことができたのは、この氏康の功績と言えよう。 さて氏康夫人は瑞渓院といって駿河の戦国大名今川氏親の娘で、氏康との間に十二人の子供を生んでいる。氏康には十五人の子があるが、そのうちの十二人を生んでいるのです。氏康はこの十五人の子をきわめて有効に配置しました。それは、嫡男氏政に家督を継がせ、氏照は大石氏の跡を継がせて滝山・八王子城主となし、氏邦に藤田氏を継がせ北武蔵の押えとして鉢形城に置き、氏規を韮山城主とし、氏忠を佐野氏の後嗣とし、氏堯を小机城に置いたのです。また、氏秀あらため景虎は越後上杉氏のもとに養子としていった。さらに、戦略上の政略結婚が顕著にみられ、娘早川殿は今川義元の嫡男氏真のところに嫁入っている。また、氏政は武田信玄の娘と結婚しているのである。 氏政の子氏直は、天正十年、二十一歳になったころから実際の政治を始めているが、その時点では父氏政も四十五歳と若く、氏政の発言権もかなり強かったようです。天正十八年、秀吉によって小田原城を攻められ開城、降伏するわけですが、秀吉は氏政および氏照に切腹を命じ、氏直は助命され高野山へ入山します。氏直が家康の娘と結婚していたのも一因といわれますが、秀吉は実質上の後北条当主を氏政とみていたのではないかと思われています。氏直は翌天正十九年に没します。その後、北条氏の家督は韮山城主であった北条氏規の系統によって伝えられます。その子氏盛を経て氏朝の時、一万一千石となり狭山藩となり大名になります。
高尾山修験道は回峰修行を通じて無我の中から悟りを開くという修行ですが、水行と火行に分けられます。水行或いは滝行ですが、神道の「みそぎ」同様、水で心身を清める行為は仏教でも「垢離(こり)」と呼ばれ、とりわけ真言宗で尊重されてきました。それが日本古来の山岳信仰に由来する「滝への崇拝」と結びついたのが滝行といわれています。 この水行或いは滝行は、蛇滝と琵琶滝で行われており、水行衣一衣をまとい、両手を組んで滝に打たれ無我の中に己を見つめる修行です。 毎年4月の滝開き、11月の滝じまいの祭事がありますが、年間を通して正式には1回の水行は21日間行われます。前の行、本行、後の行でそれぞれ7日間行われるわけですが、特に本行では食事は五穀断といい、水でかき混ぜたそば粉の主食と飲み水程度の飲食で、1日7回の滝行の後、夜半の水行、水行衣で山上の飯縄大権現に参拝するというものです。高尾山ではこの荒行を「お山参り」といっています。 さて琵琶滝では、毎月28日と第一土曜日に滝修行入門コースとして「滝修行初心者講習会」が行われています。びわ滝寺務所(0426−67−9982)に事前に申し込みが必要です。参加者が準備するものは、着替えとバスタオル程度ということですが、電話にて確認してください。尚、介添えと指導は、滝指導の僧侶が行いますので初心者でも特に心配はありませんが、体調には気を付けてあまり無理をしないように注意してください。 是非、一度経験されてはいかがでしょう。 初心者指導料は、1回 2000円で、通常は、2〜3回で一人で入滝出来るようになるとのことで、1人で入滝する場合は、この指導料は不要です。このほかには毎回必要な費用として 入滝料(200円)、清め酒1合(250円)、清め塩1袋(130円)が必要です。また入滝するときの行衣は、無料で貸与されますが、購入希望者には1着5000円で販売もしています。
なお、蛇滝に関しては、滝行そのものは今から三百年ほど前に道場として整えられ戦前から一般の人たちに開放されています。定期的に通ってくる人もいるといるそうです。 ここでは滝が御本尊。青龍大権現です。その印を結び、口に経を唱えながら、御本尊と自分が一体になるよう観じるといいます。 最近は韓国の方もよく来られるとのことで、お堂の壁には日本語と一緒にハングル文字の注意書きがされているそうです。 蛇滝へはJR、京王線高尾駅からバスで蛇滝口下車。 さらに徒歩で約10分(駐車スペースあり) 最初の数回は指導を受ける必要があります(指導料2000円)。その後、一人で行う場合は入滝料500円。原則として年間を通し入滝できます。 事前申し込みが必要ですが、毎月17日と第一土曜日に初心者講習会あります。 詳細問い合わせは、高尾山薬王院(電0426−61−1115)へ。