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案下道
追分で甲州街道と分岐する陣馬街道は、南浅川の水無瀬橋を渡り、四谷、諏訪宿、弐分方を経て、恩方へと続く。そして恩方から陣馬山脇の和田峠を越えるともうそこは山梨県となる。江戸時代は、この街道を「案下道」とも呼び、甲州裏従来、或いは甲州脇縦環とも呼んでまさに甲州街道のバイパスとして重要な役目を果たした。当時は駄馬が一日に100頭近くも行き来した賑わいを見せたという。
さてこの案下道の中程に浄福寺があるが、この付近一帯は、案下城との呼び名を持つ浄福寺城の城跡です。主郭部は千手山(356.4メートル)一帯で寺は城主の居館跡ではないかと言われています。その城主は、北条氏以前にこの地一帯をとりしきっていた大石氏ではないかとされています。築城については二宮から本城を移したと言うより分家(支城)と考えたほうがよいようです。世の中が平穏になってきたので山城を築く必要もなかったのでしょう。甲斐国が武田信虎によって統一されたのは大永元年(1521)なので古案下道を押さえるほどの必然性はなかったと思われます。大石氏は北条氏に吸収されるまでこの地方に勢力をもっていたわけなので所領内にいくつかの城館をもっておりこの城はその中のひとつと見たほうがよいようです。

庵の山
多摩御陵総門手前右手の小丘は「庵の山」と呼ばれている。
ここは近世日本における批判精神の発祥の地ともいうべき偉大かつ異色の禅僧石平道人の遺跡です。
石平道人は本名を鈴木正三(しょうさん:1579〜1655)といい天正7年(1579)、三河国加茂郡足助ノ庄則定村(現足助町大字則定)で、城主鈴木忠兵衛重次の長男として生まれた。
幼少期はここで過ごしたが、重次が松平元康(後の徳川家康)に属していたので、天正18年(1590)、家康の関東入国に従って上総国(千葉)に移り住んだ。慶長5年(1600)、関が原の合戦では、正三は父重次と共に本多佐渡守組に属して徳川秀忠軍に加わった。その後、2回の大坂の陣にも従軍した。
慶長20(1615)3月27日、三河国において二百石を賜り知行した。
正三は長男であったが、家を弟の三郎九郎重成に譲り、自分は高橋七十騎の内の一家を継いだといわれ、九左衛門とか九太夫重三、九太夫正三などと称して、家康に仕えた。その後、秀忠にも仕え、慶長20年(1615)二百石を賜り、旗本となった。
歴戦の勇士であったが、元和2年(1620)42歳の時、多年の宿願である出家の身となり、草庵「堅叔庵」(けんしゅくあん)をかまえた。
出家した正三は、当初、畿内の社寺で修業を重ねていたが、元和9年(1623)頃三河に帰り、千鳥山(豊田市)や、弟重成が知行する山中村(豊田市)の石ノ平に庵を結んで、荒行を行なった。
寛永9年(1632)、54歳のとき、弟重成の助力を得て石ノ平に石平山恩真寺を建立し、ここを拠り所として「石平道人」と号し、江戸・京都・大阪・三河各地などに出掛けては、厳しい宗教活動を行なっていた。
また、正三は、念仏や坐禅の仕方についても、独自な方法を説いている。
坐禅については「正三の仁王不動禅」といわれるように、「仁王像や不動像のように厳しい心、激しい心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」といい、念仏については「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、息を引ききり引ききり、強く念仏せよ」とか、「眼を見すえ、拳を握り、きっと胸を張り出して、ナマイダブ、ナマイダブと申せ」といっている。
「果たし眼念仏」といわれるものである。
彼の代表作のひとつである「万民徳用」は,仮名書きのやさしい和文で,「人々の心の持ち方が自由になり,人々が心の世界の中で,自由に振る舞うことができるようになるためならば,南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのもよし,座禅をしてみるのもよし,さらには,そんなことは何もしなくても,毎日,自分に与えられたそれぞれの仕事に,精一杯打ち込んで働いていけば,それが,人間として完成していくことになる」と,民衆の日常に目を向け,宗教,禅,念仏にとらわれずに,世俗的な職業に励むこと自体が,仏教修行であると説いた。
宗派宗門にとらわれることなく身分階層を問わず万民のために独特の「仁王不動禅」を力説し「命懸けの座禅をせよ」「眼を死の一字にそそげ」と号し、禅風改革に一石を投じたのでした。
さて、参道北側の長泉寺には正三の座像があり、その墓も寺の墓地にある。
近代自由解放精神の烈々たるものを示した点とともに近世仮名草子の作者として日本小説の基礎を開いたことでも有名であり代表作に「因果物語」や「二人比丘尼」がある。

役小角(役行者)と修験道
高尾山薬王院への参道の中ほど、霊気満山と額がかかった山門そばの神変堂は、昭和44年に改築されたが、入母屋造りの銅板平葺。
堂内には山岳修験の祖である「神変大菩薩 役小角」(役行者)が安置されている。
さて、この役行者神変大菩薩(えんのぎょうじゃじんべんだいぼさつ)
修験道の開祖、役行者は謎と不思議とさまざまな伝説につつまれた人である。
日本に正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)元日、賀茂役氏の娘白専女(母)と問賀介麿(父)との間に、葛木山(かつらぎさん・昔は葛城・金剛山を合わせて葛木山と称した)ふもとの御所市茅原で誕生。名は小角(おづぬ)といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行を行った。金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。
やがて修行の高まりと共に、強固な精神力と、煩悩を克服した境地に達し、呪術家としての名声は天下に鳴り響りました。権力者、藤原鎌足の病気を治したというから、その天才のほどが分かろうというもの。
『続日本紀』の文武天皇3(699)年、小角は弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言によってに、伊豆島に流罪になったという記事がある。罪状は「鬼神たちを思うままにあやつり、世間を惑わせた」というもの。『日本霊異記』によると小角は囚われている間も毎夜、富士山で修行にはげんだという。彼は海を風のように走り、鳳凰のように空を飛んだそうだ。
3年後に許されてから「仙人になって大空に飛び去った」とか「母親とともに唐に渡った」など諸説ある。701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻られました。同年6月7日68歳で、箕面の天井ヶ岳にて入寂されたと伝えられていますが、晩年の消息は不明である。
異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。
前鬼、後鬼の二鬼神を自在に働かせることができたと言いますが、その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。
小角の名声は後世ますます高まり、平安時代に“行者”の尊称を贈られて以来「役行者」と呼ばれるようになった。さらに寛政11(1799)年、光格天皇より「神変大菩薩」の尊号を賜わった。「神変大菩薩」と称えられたのは歴代の高僧の中でも役行者ただひとりである。
さて、この小角が樹立した修験道はわが国古来の山岳宗教(自然崇拝)に仏教、神道、道教などが結合されて成立した我が国独特の民族宗教であると位置づけられています。
この修験道(=山岳信仰)は、言い換えると「神道と仏教が融合したもの」であり山岳に対して日本人が古くからいだいていた畏敬の念が、仏教という思想によって改造されたものといえます。特徴の一つに「神仏習合」があり、鳥居のあるお寺や仏像のある神社といった形のものがあります。この神仏習合
は平安時代に始まったものですが、明治になって国家の「神道政策」を押し進める上で仏教が邪魔となり、国の強制的な神仏の分離の政策によって「廃仏毀釈」が行われたのです。
またその基本は、教理を探究するのではなく大自然の霊気の中で修行を積むことにより、人間の本能的欲望を断ち切り、即身即仏の境地に達しようとする実践実修の宗教」、つまり1本の樹木と化し たように山にとけこみ、自然と一体化することで精神性が高められるのだという。
修行得験とか実修実験とか表現されるように、霊山幽谷に分け入って、命がけの修行をし、霊力、験力を開発する道と言えます。修験道の開祖として尊崇される役行者に「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という聖句が伝えられていますが、修験道は自ら修して、自らその験しを得るところに真髄があるのです。
修するとは、役行者の教えの道を修するのであり、験しを得るとは、単に験力や神仏の加護を獲得するではなく、究極は自らの心の高まり(菩提心)を得ることに他なりません。自らの身体でもってそれぞれに体験し、その精神を高めていくというあり方は、ある種、万人に向いた親切な教えであると言えるでしょう。
加えて、役行者が終生を在家のまま通されたことから、「役優婆塞(エンノウバソク)」と呼ばれますが、修験道は開祖の遺風に拠って、在家主義を貫いています。優婆塞とは在家の信仰者ということです。つまり真俗一貫、在家の生活を守ったまま、仏道に叶う生き方を見つけていく、自らを高めていく、ここに修験道の真骨頂があります。
日本人は昔から山を神聖な場所として崇め尊んできたので、山の頂上には祠(ほこら)
があり麓や山中には神社を造りました。
関東地方にも沢山の修験の山があります。
ご存知の通り高尾山には薬王院という真言宗のお寺があり、本堂の奥には鳥居を持つ神社建築である極彩色の権現堂があります。
飯縄大権現を本尊としており、「カラス天狗の姿をした神」で、長野県の飯縄山から勧請し本地仏は不動明王ということです。

お花講
正式には高尾山永久お花講といわれる。毎年4月に行われる高尾山春季大祭に八王子鳶職によって行われます。
お花講の行列は稚児行列とともに市内を出発して山へ入り本尊に献花される。江戸時代より東京吉原の鳶職によって高尾山参詣講として行われてきたのだが、江戸末期に参詣中、八王子で不祥事を起こしたかどで中止となったため八王子の鳶職がこれを受けて続けるようになったといわれる。

オリエンテーリング
オリエンテーリングってご存知ですか。
高尾山を登っているとところどころにこのオリエンテーリングのポストを見かけます。
高尾山には3コース設けられています。
高尾山ってオリエンテーリングが盛んなのでしょうか。
それもそのはず、1966(昭和41)年6月26日、東京・高尾山で日本初のオリエンテーリングが行われたのです。ちなみに、6月26日は「オリエンテーリングの日」だそうです。
さて、オリエンテーリングは、地図とコンパス(方位磁石)を使って決められた山野のコースを歩いてタイムを争う競技です。普通、スタートして地図に示された地点を全部回ってきてゴールするまでの時間の速さを競います。途中どのようなルートを通っても構いません。競技者の好きなルートを通っていいのです。速く正確にコースを回ってくるために正確な地図とナビゲーションを助けるコンパス(方位磁石)を使用します。もともとは北欧諸国の軍事訓練から発達した競技スポーツですが、レクリエーションとしても楽しめ、年間300万人以上の人が参加していると推定されています。
競技としてのオリエンテーリングは、体力のほかに、地図を読む能力、プランニング能力(どこのルートを通っていけば速くまわってこれるかなどを判断する能力)が問われるスポーツです。オリエンテーリングで使われる地図は専用につくられたものをを使用します。25000分の1地形図などの通常の地図とは違い、森の中を走る上で重要なてがかりとなる地形、岩、小さな崖や穴、また通行可能度などといったものまで現地調査した上で記載されています。この情報をいかに読みとり、利用するかが勝負の決め手になるスポーツです。
オリエンテーリングは正しい地点に到達することが競技の本質で、フラッグを探すことではありません。そこが「宝捜し」とは根本的に異なる部分です。オリエンテーリングはスポーツといっても体力だけが要求されるのではなく、知力、そして時には運も必要となることがあります。
しかし、ルールといっても公式競技大会以外は自由で、「コースの通過地点にクイズ問題を置いたり、いろいろな楽しみ方をされているようですよ」(同協会事務局)とのことです。
日本オリエンテーリング協会が公認しているコースは全国に約600カ所ほどあります。
東京都なら高尾山以外では、大島に2カ所設定されています。
コースによって距離は違いますが、10キロが標準になっているそうです。
公認コースには、マスター地図と呼ばれるものが備え付けられていて、それを利用することができます。
小学生から高齢者まで幅広く参加できるのもオリエンテーリングの特徴で、勝ち負けに関係なく楽しめるのも、この競技の良いところです。
自然の中を歩いたり走ったりすることは、とても気持ちのいいものです。
高尾山でオリエンテーリング、あなたもチャレンジしてみませんか。
組織としては、社団法人日本オリエンテーリング協会03(5476)5657があり、指導者の養成もしています。

梶原景時と梶原杉
梶原景時は、鎌倉幕府初期の御家人。
先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏。
鎌倉権五郎景政は、後三年の役では源義家に従い、若干16才で勇猛な働きをしたとして名高い。その流れを汲む梶原氏は鎌倉一帯に一勢力をなしていた。源平の合戦で景時は息子の源太郎景季と共に活躍。
源頼朝は、1180年、以仁王(高倉宮)の令旨を受け、挙兵しました。その緒戦の石橋山合戦では、三浦一族の援軍が遅れ、頼朝は惨敗を喫しました。
梶原景時は、この時には平家方の大庭景新(おおばかげちか)の軍に属し、石橋山の戦いで頼朝を追い詰めました。頼朝は逃れて洞窟に身を潜めていましたが、後を追ってきた景時に見つかります。頼朝はもはやこれまでと自害を覚悟します。しかし、平家の衰退の予兆を感じ、政治情勢に敏感な梶原景時は、なんと頼朝を見逃しました。『源平盛衰記』には「しばらく相待ち給え。助け奉るべし。戦に勝ち給いたらば、君、忘れ給うな。」といったとあります。
後に大庭景親は殺されたが、景時は苦戦の頼朝を逃したことで鎌倉御家人に加えられた。
源義仲追討や平家打倒の戦いでは軍奉行(いくさぶぎょう)として十分の働きを見せ、鎌倉幕府創立に功を立てています。
無骨な坂東武者の中にあって、景時は弁舌さわやかに加えて、歌詠みに匠みであったことが頼朝のお気に入りであったという。
1191年に頼朝の命により鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を元八王子のこの地に勧請した。このときに植えたといわれる「梶原杉」は高さ30メートルあまりの巨木で都内随一の大杉として都の天然記念物に指定されていた。枝が地上15メートルのところで下向きに垂れていることから「逆さ杉」とも呼ばれた。
一説には景時がさした枝から芽を吹いたとの話もある。
八幡神社のご神木として育てられていたが1972年に枯れてしまった。
さて、景時は、鎌倉本體(かまくらほんたい)の武士」として源頼朝(みなもとよりとも)に重用され、侍所所司(さむらいどころしょじ)を務めるなど、鎌倉幕府の基礎づくりに尽力しました。
しかし、朝廷の人気者になった義経を頼朝に訴え出て追放する等、政治の裏で立ち回ったと言う印象も強い。
頼朝死後、頼朝の信任が厚かった結城朝光(ゆうきともみつ)という武士が、頼朝を慕う言葉を口にして、昨今の世の乱れを嘆いたことを、頼家に反意を抱くものとして二代目将軍頼家に讒言しました。
驚いた朝光は、和田義盛や三浦義村らに連絡して善後策を相談したため、正治元年(1199)10月28日、千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠といった有力御家人66人が連署した梶原景時弾劾状を作り、幕府に訴え出ました。
一説には、頼家の独裁を支える鎌倉殿側近第一の梶原景時が粛正の的として狙われたと考えられている。景時は頼家の乳母夫の一人でもあったからだ。
当時、頼家の鎌倉殿としての手腕に不安感じた側近の老臣たちは、母の政子と相談して、頼家が訴訟を直接裁断することを停止して、政所別当の大江広元はじめ元老や御家人代表十三人の合議制で裁決する事に決めてしまっていたのだ。
さて、将軍頼家は、この弾劾状について景時に弁明を求めましたが、彼は何の申し開きもせず、12月18日、一族を引き連れて領地の相模国一宮にこもります。
その後、幕府は景時の追放を決め、鎌倉の屋敷は取り壊されました。
翌年、正治2年正月19日、景時らは京に向けて出発しました。
その途中、駿河国、清見ケ関から大内(静岡県清水市)あたりで、鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せをうけ戦となりました。
合戦は、夜に入って忽然として清見ケ関に始まり、暁方になって狐ヶ崎(静岡県清水市)で土豪の手にかかり殺害された。
一夜のうちに数百の軍兵が叫び駆け回って殺し合い、頼朝の一周忌のあけた正治二年(1202)正月二十日、頼朝の股肱の臣ともいうべき梶原景時は幕府軍に討たれて一族諸共滅亡した。
なお1955年頃には八幡宮の近辺で埋蔵金の噂が流れ発掘が行われたが発見できなかった。


関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は,東京都八王子市南浅川町梅の木平より,埼玉県,群馬県,栃木県,茨城県,千葉県,神奈川県を経由して首都圏を一周する延長1667kmの長距離自然歩道です。1日で利用できる144コースが設定され,八王子市内にはこの内3コースがあります。
湖のみち
梅の木平〜高尾山口駅 距離:16.2km 時間:5時間30分
南浅川町梅の木平を起点に南西に向かい,城山湖のそばを通って北西に,大垂水(おおだるみ)峠から小仏城山を経て(東海自然歩道と重なって)高尾山口駅までのコースです。梅の木平までは,高尾山口駅から国道20号線を南へ徒歩20分程度です。
鳥のみち
高尾山口駅〜陣馬高原下 距離:19.4km 時間:6時間
高尾山口駅から(東海自然歩道と重なって)小仏城山経由で陣馬高原下バス停までのコースです。高尾−陣馬間ハイキングコースはまさにこの「関東ふれあいの道・鳥のみち」なのです。
富士見のみち
陣馬高原下〜上川苔 距離:14.7km 時間:6時間
陣馬高原下バス停から和田峠に行き,陣馬山とは反対側に向かい,八王子で一番高い場所の醍醐丸(だいごまる:867m),1000mを越える連行山(れんぎょうさん:1019m),山頂の景色は良いが登のが大変な生藤山(しょうとうさん),そして富士山が良く見える景色最高で,武蔵國(東京都)・相模國(神奈川県)・甲斐國(山梨県)の3つの国にまたがる三国山から北西に向かい上川苔バス停までのコースです。

サルの世界も女性上位
3代目はママボス メスの支持受け、仲裁上手−−高尾山猿園
96.04.16
毎日新聞社東京本紙夕刊
◇64匹従え−−暫定?本格?
東京都八王子市の高尾山にある民間の「高尾山猿園」(町田正臣園長)で今月、メスザルのベタア(14歳)が“3代目ボス”に就任した。べタアは2匹の子ザルの母親。けんかの仲裁などはお手のもので、ライバルのオスザルを押し切った。64匹のサルたちを統率し、ママボスの貫録をみせている。(渡辺雅春)高尾山猿園は高尾山(標高599メートル)の中腹にあり、広さ約5000平方メートル。
1970年、島根県羽須美村の伴蔵山から野生のニホンザルを連れてきて開園。初代ボスはオスのバンゾウ。暴風で園のフェンスが倒れた際に逃げ出してしまった。2代目はやはりオスのベン。昨年8月、老衰死するまでボスの座にあった。ベンの死後、オスのカク(8歳)が3代目への意欲をみせ、率先してトラブルの仲裁などに走った。しかし、ベンの妹のベタアが「家柄」と、メスザル全員を仲間に付けたことから、力を発揮、カクを抑えた。ちなみに、同園のサルの性別はオス29匹、メス36匹。
同園では、ベンが長期政権を敷いたため、家系による順位が、ほぼ絶対的な権威を持つようになったようだ。ベタアが順位第1位だったのに対し、カクは第2位の家系だったことがハンディになったらしい。
同園は高さ3・2メートルのフェンスで囲まれているが、近くの木伝いに野生ザルが侵入して争いになることもある。町田園長によると、ボスの条件は(1)食べ物の奪い合いなどのトラブル仲裁(2)皆を指揮して野生ザルから群れを守る(3)群れを統率するため巡回パトロールを行う――など。ベタアはこの条件を満たしているという。町田園長は「メスがボスという例は少ないが、もうベタアが3代目と言っていいと思う」と話している。
上野動物園サル山担当の川口幸男さん(56)によると、46年間でメスがボスになったのは56年9月から5カ月間と70年5月から9カ月間の2回あっただけ。川口さんは「例数は少ないが、発情期でない時期にオスのボスザルが死んだ際にあり得る『暫定政権』と言える。1年以上続けば本物のボスで、本当に珍しいケースになるが」と話している。

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