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断層
高尾山をはじめこの周辺の山々は、1億年ほど昔は海底にあったと思われます。この海に、今からおよそ7千万年〜1億年前の間を通して地層が堆積していったと考えられています。この層は、その後の度重なる地殻変動により盛り上がり、高尾山とその周辺の山々となっていたわけです。
ところで、高尾山は、植物の宝庫と言われています。その山肌は、ほとんどこれら豊富な植物で覆われているのですが、一部、その山肌を直に覗かせているところがあります。そして、そこでは「断層」がはっきりと確認できるのです。断層というのは、地質学的には、「地盤あるいは岩盤中のある面を境にして、その両側で変位が認められる割れ目」と定義されているようです。地震が起こるとよく悪者にされるあの「活断層」の「断層」です。断層は、よく山肌を削る宅地造成地域で見られたものですが、近年、このような状況にはとんとお目にかかりません。
さて、日本列島は、古生代から中生代という地質時代に形成されていると考えられており、よく学生時代に地学で学んだあの強大な「地殻変動」でできた列島ですので断層は日本列島形成活動の結果と言えます。従って、その意味では本来、日本中どこにでも断層は見られるはずです。しかし、都会に住んでいると先ほどの話ではありませんが、そうそう山肌を覗く機会もありませんので、高尾山のようにハイキングがてら見られるのは本当に絶好に機会でしょう。
というわけで、地質に興味のある人は、是非、高尾山口から自然研究路6号路を歩いみることをお勧めします。高尾山周辺では数箇所の断層を確認できるのですが、6号路で見ることのできる断層はとても見やすくはっきりしたものですので、この路は最高の観察路と言えます。ケーブル山麓駅の左に小さな川が流れており、それに沿った道が6号路となっています。この研究路に沿って高尾山を登っていくとほどなく左に黒色の粘板岩や砂岩を見ることができます。また、岩屋大師の少し手前では、比較的大きな断層が見られます。この一帯は、ここかしこにこのような断層が見えることからも、この辺の谷は断層によってできた谷と言えます。
もう少し詳しい説明をお聞きになりたい方は「高尾の地学」へどうぞ

天狗
その昔、高尾山には天狗が住んでいたと言い伝えれれます。
天狗には、大天狗、子天狗、など様々なものがいますが高尾山の天狗は、この中でも「カラス天狗」だと言われています。
飯縄権現堂の回廊の前にある像がそれですが、背中には大きな羽が生え、手にはうちわを持ち、いでたちはさながら山伏のようです。天狗はそもそも山中で起きる怪異現象を、そのなせる業としたところにあるようです。
日本国内でも、林の中の大木の倒れるような音を「天狗倒し」、祭りのような騒ぎが聞こえる「天狗囃子」、また行方不明者の「神隠し」も天狗の仕業とされているところもあるようです。高尾山七不思議の天狗の腰掛けなどをみても高尾山ならばひょっとしたら本当に天狗が住んでいたなんて言われても信じてみたくなるような気がします。皆さんいかがでしょうか。
ところでJR高尾駅のホームには天狗の面の石像があり、初めて駅に降り立つハイカーをビックリさせてしまいます。この石像、昭和53年10月に地元の観光協会と薬王院が安置したもので、中央線旅客の安全を祈願したものです。山梨から35トンの御影石を運び、造形大学の協力で彫刻したものですが、完成後の面は重さが約18トン。顔の丈が何と2.4メートルというもの。ちなみに天狗のトレードマークの鼻の長さは1.2メートルといいます。
天狗のお話をもっと知りたい方は
JR高尾駅3、4番線の天狗

天狗の行進
1,300種もの植物が、都心からわずか50キロメートル、海抜600メートルの高尾山に生育している…
これは奇跡に近いことです。745年、東大寺を建立した僧行基の開山以来、1,200年以上もの間守られてきた高尾山に、地球環境の危機が叫ばれ公共事業のあり方が問われている今、なぜ巨大なトンネルを2本も掘らなければならないのか。
そんな思いで、八王子城跡のオオタカ営巣地や高尾山の貴重な生態系を守ろう、と圏央道の建設に反対している市民グループが、毎年、圏央道高尾山トンネル計画地の八王子市裏高尾町の梅林で現地集会を行っています。
集会は、18回(2002年)を数え、参加者は当初の約2000人から、年々減少。しかし、2002年は、土地強制収用の件から、前年よりも多い約900人が集まった。また、外国人の参加者も年々増えてきた為、2002年からは、市民グループの活動報告をボランティアが通訳し、国際的にもこの自然保護運動が認知されてきたことを伺える集会となった。
そして、ついに天狗の行進、参加者には、意外と中学生や高校生も多く、大きな天狗の面を使った「みこし」をかつぐのも彼らの重要な役割。運動のシンボル天狗の顔を乗せた神輿を担ぎ、約2km先の公園まで行進した。
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東海自然歩道
東海自然歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」まで、太平洋メガロポリスの背後を通り緑豊かな自然と貴重な歴史を伝える文化財をたずねる、心身の健康と安らぎを与える1都2府8県にまたがる全長1,697kmの歩道です。
その長い長い道のりの中には、高尾山、裏丹沢、忍野、青木ケ原、竜爪山、久能尾、秋葉山、鳳来寺山、段戸、明智、中山道、関ケ原、養老、鈴鹿高原、青山高原、室生、山の辺の道、春日山と柳生街道、笠置山、信楽、石山と宇治川、比叡山、大原、嵐山、箕面など、数多くの興味地点が点在している。
また、富士山周辺では
山中湖から森林の中を抜ける青木ヶ原樹海、牧場や草原の広がる朝霧高原、標高1335mの長者ヶ岳、天子ヶ岳などを通って南アルプス
方面へ抜けています。
この歩道は、昭和44年厚生省(現在環境省)が、我国で最初の長距離自然歩道構想として発表し、国民の大きな支持をえて昭和45年度から事業に着手下ものであって、国民共通の遺産であり誇りでもある美しい日本の自然を国民の誰もが心ゆくまで探勝できるようにという願いがこもっています。
また、歩道を含む周辺一帯のほとんどが国立、又は国定公園地域となっており、沿線の自然は法律によって保護され、都市化や産業開発によって失われようとする自然の防波堤の役割も果たしています。
実に多くの人の意見を取り入れて3カ年計画で着手されたわけですが、このコースは、じかに自然に触れ埋もれがちの貴重な文化財に出会うことを条件に選出されました。
歩くことだけが目標ではなく、名勝地、古戦場、旧街道を多く経由して、歴史の流れを知るなど、内面的に豊かになろうという狙いがあるわけです。
もっとも全コースを歩くと50日はかかるでしょうからよほど余暇を持つ人でないと歩き通すのは無理でしょうから、コースを通る各都市から分割して歩く人が多いようです。
高尾山の自然研究路の1号路が東海自然歩道の東の起点になりますので時間に余裕があれば一つ足を延ばしてみるのもいかがでしょうか。
東海自然歩道起点の碑

十々里(とどり)の古戦場
JR中央本線高尾駅の北、多摩御陵、農林水産省農林技術総合研究所のある一帯が廿里(とどり)です。
地名は、(1)京都から百里あるので十十里で廿里となつたとする説、(2)京都の高雄山に対する砥取(とどり)の地名が高尾山にも持ち込まれたとする説があります。
ここは永禄12(1569)年10月1日、武田信玄の武将小山田信茂と滝山城主北条氏の重臣達が一大血戦を行ったところです。
JR高尾駅から高尾街道にそって少し登っていくと表示が出ています。
今は全くその跡形はなくこの地の地名からしのばれる程度です。
永禄12年、甲州の武田信玄は、北条氏康の小田原城を攻めんとして甲州(山梨)を出発し、碓氷峠を越えて武蔵方面(埼玉)の北条氏の出城を次々と攻略しながら南下して滝山城を攻めるため拝島に陣をしいた。
一方信玄の武将小山田信茂は小仏峠を越えて滝山城に向かって押し進めたのでここ十々里の原で北条軍と血戦となった。
北条軍は、氏照の重臣、横地監物、中山勘解由、布施出羽守という精鋭部隊であったが、結果は一戦にして北条軍が敗れ去ったとされる。
廿里町には、この時八王子城防衛の前線に武田氏攻撃に備えて築いた防塁の跡が残されている。

十々里古戦場の案内板

とんとんばなし
高尾を始め、八王子一帯では「昔話」のことを”とんとんばなし”と呼んでいますが、このとんとんばなしには三つの意味があると言われています。
ひとつめが、とんとんというのはトントン拍子のことで、軽快に話が進むということで、みんな最後はめでたしめでたしという形で終わるということからきているようです。比較的短い話が多く、聞く方にとっても苦痛にならず、とんとん話が進む様子からきたものです。
ふたつめがとんとんの意味が遠い遠いという意味で、昔昔と同じ意味のようです。昔話のことだから時にはつじつまの合わぬこともあるが、それはそれ昔話なのだから適当にかしこまらずに聞いてくれという気持ちがこめられているようです。
みっつめがとんとんというのは、尊い尊いという意味を込めたものでありがたいお話ということです。高尾の薬王院を始め八王子には神社仏閣が多いものですからやや説話風な昔話が多いようです。いずれにせよとんとんばなしは疑うことをしない単純さ、素朴な説話を生み出したここ高尾を始めとする八王子の人々の気質によるものなのかもしれません。


狭間の獅子舞
この獅子舞は,天正18(1590)年に八王子城主北条氏照より獅子頭を賜ったことから始まったと伝えられています。武運を祈り氏照自身が横笛を吹いたとも伝えられている。
当初は現在の高尾町の氷川神社に奉納されていたが、
明治5(1872)年の行政区域変更で現在の狭間(はざま)町の 御嶽神社(みたけじんじゃ)に移りました。
そこで,氷川神社は狭間より獅子舞を伝授され、以来この神社に奉納するようになったそうです。
なお元の高尾町の氷川神社(ひかわ
じんじゃ)は,京王線高尾山口駅の東側の駐車場の奥にありますが毎年8月第3日曜日のお祭りには「子供みこし」や「氷川神社の獅子舞」が奉納されます。
八王子地区の獅子舞の多くは市の指定無形民族文化財に指定されています。
日枝・琴平神社 4月第2日曜
小津熊野神社 8月中旬
氷川神社と狭間 8月下旬
田守神社 8月最終日曜
今熊神社 8月最終日曜

八王子城
戦国時代末期の武将、北条氏照の居城と伝えられている国の史跡・八王子城跡で、御主殿(城主の居館)に通じるとみられる大規模な古道があることが郷土史家らの調査で数年前明らかになり、その後八王子市教委も調査でほぼ確認しました。
天下統一を目指す豊臣秀吉の軍勢が、八王子城を攻め落としてから約400年。
八王子市は記念事業として城跡の発掘調査や散歩道づくりを進め現在は散策も絶好のコースとなっています。ところでこの古道を最初に見つけたのは、地元の八王子城山会の人たち。御主殿を含む八王子城跡は、城山川の北に広がる丘陵の中腹にありますが、古道が通じているのは、川をはさんで城跡の南側の丘陵の北向き斜面。
約1.5キロ、幅は最大8メートルと、中世の山城の周囲でこれまで発見されたものの中では最大と思われます。87年には古道の東約300メートルに、数十メートルの道が発見され、さらに約200メートル東に、170メートルの道を見つけ道幅は実測で5、6メートル、最も広い場所で8メートルもあったと思われます。
当時の城に通じる道路の幅は、5、6メートルというのが相場であり、築城に伴って作られた道の幅はほぼ一定だから、幅8メートルの道がずっと続いていたのではないかと見られています。市教委も御主殿付近を調査し、大手門の跡とみられる石の土台や土塁を確認しました。また、城山川を横切って御主殿に通じるとみられる「ひき橋」の石積み土台の跡も見つかっている。
市では、落城400年を記念し、保存整備事業を進め、御主殿跡の大がかりな発掘調査や発見された古道の一部を整備して散歩道を造られました。また、ひき橋の土台に橋をかけたり、土塁も復元されました。 ところでこの八王子城は、北条氏照の兄で、小田原城主だった氏政の出城として築かれたものです。1590年6月(旧暦)、豊臣勢に1日で攻め落とされたといわれます。戦いに敗れた氏政は翌月、小田原城を明け渡し、秀吉の天下統一に拍車がかかったとするのが歴史家の意見です。当時の資料がほとんど残っていないため、築城の時期や規模、陣容などはなぞの部分が多い、まだまだ研究調査が待たれる城といえます。

八幡神社
JR高尾駅から元八王子方面に向かい暫く行くと宮の前の交差点にたどり着く。
ここにある八幡神社は12世紀、梶原景時が勧請したという由緒のある神社である。参道の両側には民家が迫り、桜の古木が昔を惜しむかのように十数本立っている。
この奥右手に景時ゆかりの「梶原杉」がある。とはいっても十数年前に枯死して今はその切り株だけとなっており、いっそうあわれを感じる。この切り株から切り取った輪切りの部分が「年輪の見本」として高尾自然科学博物館に展示されている。
このころが関ヶ原とかこのころが大政奉還だとか年輪から約800年のタイムスリップができるわけでなかなか興味深い。
今の境内の東には慈根寺(真言宗)がり、戦国期にはその後身で八幡社の別当寺と見られる慈根寺西明寺が存在し、明治元年(1868)に廃仏毀釈のとき廃寺となったことが知られている。地元ではこの八幡神社も城山も「ジゴジの八幡様」「ジゴジの城山」の名で親しまれている。
八幡神社の東の地域には、鍛冶屋敷の地名、江戸中期の下原鍛冶である武蔵太郎安国鍛刀の地の碑や滝山城下から移った八幡・八日市などの町名や寺院跡と伝える地が残っている。

琵琶滝
高尾山自然研究路の6号路の途中には、琵琶滝があります。ここは今でも薬王院の修行の場として使われその姿をかいま見ることができます。
この滝の響きは遠くで聞くとまるで「琵琶」の音のように聞こえるということです。皆さん一度耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
またここ琵琶滝では、お願いすれば滝修行ができます。
シャンティさんから、以下のような体験をお寄せいただきました。

水行修行の琵琶滝
学生最後の強烈な思い出 投稿者:シャンティ 投稿日: 4月 4日(木)21時19分19秒
3月28日に琵琶滝で滝修行を初体験しました。
卒業式の謝恩会で良い気持ちになっていた私は、Iターン就職をする友人に
最後に何でもすると約束してしまい・・・・・
まさか、数日後に「デビ夫人もやっていた滝修行がやりたい」と言われるなんて
想像もしていませんでした。
そして何の知識も無く参加する事に。
どんなものか最初は不安でしたが、懇切丁寧に指導していただきました。
しかも、タオルや着替えを持っていかず、他の参加者の方に下着を頂くなど
何から何までお世話になりっぱなしでした・・・反省。
社会人となり、毎月28日は無理そうですが、毎月第一土曜日もできるそうなので、
今度また参加したいと思っています。最初の動機は不純でしたが。
まだ3月だったので寒かったですが、これから暖かくなるはずなので興味のある方はどうぞ!!

蛇滝(じゃたき)
裏高尾の猪の鼻山の前を南におれると、蛇滝を通り高尾山へ登る登山道へとなります。
蛇滝は琵琶滝と同様に滝修行の水行道場です。その昔、猟師に撃たれた白蛇が今にも殺されそうになった時、そこをたまたま通りかかった俊源大徳に助けられました。白蛇はそのお礼にと、滝修行の場を探していた俊源大徳の為に滝に化身し、我が身を提供したという言い伝えがあります。
この滝行ですが、神道の「みそぎ」同様、水で心身を清める行為は仏教でも「垢離(こり)」と呼ばれ、とりわけ真言宗で尊重されてきました。それが日本古来の山岳信仰に由来する「滝への崇拝」と結びついたのが滝行といわれています。
蛇滝そのものは今から三百年ほど前に道場として整えられ、戦前から一般の人たちに開放されています。定期的に通ってくる人もいるといるそうです。ここでは滝が御本尊。青龍大権現です。その印を結び、口に経を唱えながら、御本尊と自分が一体になるよう観じるといいます。
最近は韓国の方もよく来られるとのことで、お堂の壁には日本語と一緒にハングル文字の注意書きがされているそうです。
蛇滝へはJR、京王線高尾駅からバスで蛇滝口下車。さらに徒歩で約10分(駐車スペースあり)
最初の数回は指導を受ける必要があります(指導料2000円)。その後、一人で行う場合は入滝料500円。原則として年間を通し入滝できます。
事前申し込みが必要ですが、毎月17日と第一土曜日に初心者講習会あります。
詳細問い合わせは、高尾山薬王院(電0426−61−1115)へ。
ところでこの裏高尾のバス停「蛇滝口」前には、「蛇滝の下の峯尾」として古くから親しまれてきた「行者宿」の建物が今も残っています。その軒下には「はね板」と呼ばれる札が掲げられていて、今もこれがそのまま残っています。「はね板」は縦50cm、横15cmの大きさで、今見ることができるのは75枚です。高尾山の講中の人々が、この宿にが建てられたおり、掛けたものだということですが、時代を感じさせられる風情のある景色が、そこには今もあります。
行者宿の面影が今もひっそりと

返事をするサル
ここ高尾山のサルは返事をするサルとして有名です。確かにサルは動物の中では賢く日光のサル軍団など楽しませてくれる芸をやってくれます。
でも呼ぶと返事をするサルというのは本当に珍しいのではないのでしょうか。決して芸を仕込んだわけでもなく自然と返事をするようになったというのですから本当に驚きです。
高尾山のサル園では、飼育係の人が名前を呼ぶと「ウキー」といって答えるのです。
現在約60頭ほどのサル達が皆さんのお越しを待っています。ちなみにこのサル社会は上下関係が相当厳しいらしく、ボスから順位が全てついていて、新人は一番下のサルにまずいじめを受けるそうです。会社人間の方達にとっては身につまされるようで自分がどのサルの位置にいるのかとつい考え込んでしまうとか......
高尾山サル山・野草園 0426−61−2381
ケーブルカーにて山頂から約5分
平日 10:00 〜 16:30
日・祝日 9:30 〜 17:00(時間については念のためお問い
合わせ下さい)

北条氏照
戦国時代に小田原に本拠をおいていたのが北条氏で、三代目の氏康は早雲の孫にあたります。氏康は勢力を今の千葉県から埼玉県まで拡大し各地に城を造りました。氏照はこの氏康の次男で八王子城の城主です。
城を造る技術や戦いの方法、また優れた外交手腕を持っており秀吉からも恐れられていたようです。天正18年、この秀吉によって本拠地である小田原城が包囲された時、氏照は兄の氏政とその子氏直とともに小田原城にいましたので、八王子城は城主を欠いたまま6月23日わずか1日で落城してしましました。
捕らえられた氏照は氏政とともに秀吉から切腹を命じられます。当主の氏政はともかく氏照もこの世から葬らなければならなかった秀吉がいかに戦国武将氏照へ高い評価と恐れを抱いていたかがこのことからも明らかでしょう。

幻のオリンピック
お稲荷さんを安置した祠があるところから名付けられた高尾山散策路のひとつ「稲荷山コース」は隠れた歴史が残るコースでもあります。
昭和14年に東京でオリンピックの開催が決まり、高尾山も観光地として多くの外国人観光客がやってくるだろうと見込まれた。そこで東京都は、ほぼ2年の歳月をかけて新観光コースとして整備したのです。しかしながら時代はやがて戦争色濃く東京オリンピックも幻のオリンピックとなったのです。

ムササビ
高尾山のムササビは1号路沿いでは30カ所あまりにおり、高尾山全体では150程度が住んでいるのではないかとの報告がある。
ムササビの性質はおとなしく人をこわがらないので高尾山を歩くとご対面できる機会があるが、体長40cmほどのリスに似たその前後両足の間には鳥のような飛膜がありふさふさした長い尾がはえているのが特徴だ。
木の実以外では桜の樹皮が好物のようで冬枯れの高尾山で桜の枝が白く目立ったら彼らの仕業にちがいない。近年高尾の山にも高速道路が横切り夜行性の彼らとしては夜走る車のライトを嫌って裏高尾のブナ林にはいなくなってきたとの話もある。
豊かな自然の指標でもあるムササビの棲める森をいつまでも守ってやりたいものだ。

清滝駅前広場のムササビの像は子供達に人気

もみじの縁結び
高尾の紅葉はその美しさでも有名ですが、昔から人々に親しまれてきたのは「もみじの縁結び」によるものも大きいようです。
紅く染まったもみじの葉に自分が想う人の名や詩を書いて高尾の谷から吹いてくる風に乗せてとばすと縁や恋いのとりもちをしてくれるというのです。
このいわれは
天河紅葉を橋に渡せばや七夕女の秋をしも待つ
(あまのがわ もみじをはしにわたせばや たなばたつめのあきをしもまつ)この歌で知られる中国の唐代の「紅葉の媒(なかだち)」の故事中国の故事からきているようで、唐の時代のこと、干祐(うゆう)という若者が、もみじに詩を書いて風にとばし韓夫人と結ばれたという恋の話です。
なおもみじはなるべく濃いものをひとつだけ選ぶそうです。濃いは恋につながるとか。みなさん試してみては。

薬王院の保護
天平16年(744年)に行基によって開山された高尾山は、ここに薬王院が建立されて以来、時の権力者からも霊山としてあつく保護されてきました。特に永和年間(1375−76年)に俊源大徳によって飯綱大権現をご本尊として中興されてからは、武田信玄、上杉謙信など数々の武将達によって厚く信奉されたのです。
武田信玄が国界(小仏峠)へ関を設け、武蔵からの通行を阻んだことがあります。この時、八王子の北条氏照がすかさず高尾山上に富士浅間社をまつりました。富士登拝の道を絶たれた関東一円の富士講中は、高尾山頂から富士山を拝したといいます。関がなくなった後もこれが慣例となり、江戸時代の富士講中はまず有喜寺へ詣で、高尾山頂から尾根伝いに小仏峠に出て小原宿(相模湖町)へ下ったようです。
高尾山は自然の宝庫といいますが、これはこのように古くから有喜寺境内地として山の自然が厚く保護されてきたことによるようです。上杉謙信の制札として永禄4年(1561)のものなどが最古のものとして残されていますが、中でもこのあたりの領主であった北条氏康と氏照は、最も厳しいものとなっています。高尾の山中の木一本たりとも切るのを禁じ、これを犯したものは即首を切るなどして厳罰に処したといいます。また下草を刈ることも禁じたといいます。
この命令は江戸時代にも引き継がれ、以来高尾の山は犯すべからざる霊山としてその美しい山の姿を今日まで保ってきたのかもしれません。かなり強権的ではありますが、自然保護のためにはこれほどの徹底が必要なのかもしれません。
近年心ないハイカーたちが平気で植物や木々を根こそぎとっていったなどといったニュースを聞くとまったく残念でなりません。ところで上杉謙信の兜を知っていますか。南北朝時代に醍醐寺から入山した峻源和尚が飯綱大権現を奉ってから、高尾山ではこの神が信仰の中心となったわけです。
その不動尊が白狐に乗っているようなご神体には鳥の嘴と羽があり額に白蛇を置く福神ですが、上杉謙信はこの神を信仰して兜に神像を飾ったのです。好敵手だった武田信玄も、あまり知られていませんが飯綱大権現をいつも携えていたようです。このように武将尊信の神だったのですね。

列車銃撃事件
旧甲州街道の蛇滝口バス停近く(裏高尾町)に慰霊碑が静かに建っています。
これは終戦直前に起きた米軍機による列車銃撃事件による犠牲者を弔った慰霊の碑です。
1945年8月5日(昭和20年)湯ノ花トンネルにさしかかった満員の新宿発長野行きの中央線下り列車を米軍の艦載機P51が機銃掃射し多数の一般市民(非戦闘員)を死傷させるという事件がおきました。
少なくとも52人が死亡、900人以上が怪我をしました。太平洋戦争中、列車銃撃では国内でももっとも被害が大きかったとされています。当時はよく晴れて暑い日で、八王子空襲で不通になった中央線が4日ぶりに開通し、乗客が窓にぶら下がるほどの満員電車であったようです。
戦闘機が見えたとき、すぐ窓を閉めるように車内放送が流れましたが、満員の声にかき消され、うまく伝わらなかったようです。
戦時下とはいえこれは国際法にも違反する人道上許されぬ行為として当時非難の声があがりました。
現場近くに建てられたこの慰霊碑にはこの事件による犠牲者の名前が刻まれており、毎年この日には、「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が中心となり、慰霊祭が行われます。

ところで、2005年10月22日 読売新聞によれば、
八王子市裏高尾町のJR中央線「湯(い)の花トンネル」付近で1945年8月5日、下り列車が米軍戦闘機に銃撃され、60人以上が死傷した事件で、たまたま列車に乗り合わせていた新聞記者が、銃撃の様子を生々しく日記に記していたことが分かった。同事件は、いまだ被害の全容がつかめず、不明な部分も多いだけに、事件に遭遇した乗客による当時の記述は全容解明のためにも重要で、郷土史研究家は「まさか記者が同乗していたとは。貴重な資料だ」と驚いている。
日記は、銃撃事件で同僚記者とはぐれながらも、浅川駅の次の与瀬駅で再会し、互いに安堵(あんど)するまでを書き記しており、現場周辺の地図や銃撃を受けて逃げまどう乗客の様子を描いたさし絵も添えられている。これまで、生き残った乗客の証言が2機、3機などと食い違っていた戦闘機の数について、森さんは4機と記している。
碑文(表)
終戦間近の昭和二十年八月五日 真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃 満員の新宿発長野行き四一九列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき 米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け 五十二名以上の方々が死没し 百三十三名の方々が重軽傷を負いました
この空襲は日本最大の列車銃撃と言われています私どもは この戦争の惨禍を決して忘れることができません
ここに 確認された犠牲者のお名前を書きとどめ ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ現在の平和の日々をかみしめ 戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます
碑文(裏)
戦災死者供養塔は 昭和二十五年八月 当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が 亡くなった方々を供養するため 団員協力のもとに建立したものです
供養塔には 亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました
地元に住む人々は 尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく 供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果 この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました
そのうち 四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年 遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました会では この年の八月五日を「供養の日」に定め 毎年供養の集いを行い現在に至っています
供養塔は はじめ唐沢踏切の北側にありましたが 地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき 昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されましたかねてから 会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ 平成四年三月 東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました
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ワシタカ
鳥の王者「ワシタカ」、高尾山で確認できた種類は10種を超えており、深山や高山帯にいるはずのクマタカや海岸河口にいるはずのミサゴなども見ることができるまさに高尾山の自然の醍醐味と言えます。ワシタカ類というと、ウサギなどを果敢に狩ると思われがちですが、それは大型のワシタカの話で、体の大きさによって獲物は変わってきます。
高尾山でのワシタカの観察は、金毘羅台や城見台の1号研究路の途中や稲荷山コースの中ほどのあずま屋付近、リフトの山上駅近辺などほとんど決まっているようです。ワシタカが大空を舞うのは自分の縄張りの防衛と狩のためだが、飛ぶ時間帯も大体決まっているようで、夏冬によっても違うが午前7時ころから11時ころまでだとか。
600メートルの低山とはいえ小型の哺乳類や爬虫類、小鳥、昆虫などの彼らの主食が高尾山には豊富だということでしょう。しかしその自然の宝庫高尾山はいつまで彼らの安住の地となるのでしょうか。自然環境のバロメーターともいえる彼らが安心していつまでも住み着ける環境を残してあげたいものです。

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