高尾観光案内


  

高尾近辺の隠れた名城

 

 浄福寺城跡
 片倉城跡
 八王子城跡
 滝山城跡
 初沢城跡

 小田野城跡



滝山城跡


多摩川の 風吹き上げて 夏木立         尺水

 国の指定史跡である滝山城は、八王子駅より戸吹行バスで「滝山城跡下」で下車すると、そこは「滝山公園」の入口。ここに眠る滝山城は、八王子城に勝るとも劣らぬといわれた名城のひとつであり、北条氏照ゆかりの城である。

 公園といっても、滝山城の跡地と、その周辺の丘からなる都立の公園ですので、公園と名が付いていていますが子供が遊べる遊具施設や原っぱ、売店などは一切なく、園内のほとんどは森林地帯で、足を踏み入れることもできません。しかし、滝山城は、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。園内には遺構毎に説明板が設置されており、現在でも本丸跡、中の丸跡、空堀や土塁などを見ることができ本丸と中の丸の間に曳橋も復元されている。

 高月城にいた関東管領山内上杉氏の重臣、武蔵守護代・大石定重が、高月城から同じ加住丘陵(標高170m)であるが、東南に約1km離れた滝山に移り、「滝山城」を築いたのは大永元年(1521年)という。その子・定久が養子に迎えた北条氏康の次男の北条氏照は城を拡充させ、その規模雄大さは当時関東屈指の山城と称された。大石氏の時代は横山城と呼ばれ、北条氏照によって滝山城と改称されたようである。

 この滝山城は巧みな築城技術の跡を残しており、道具といえば鍬しかなかっただろうこの時代によくもこのような城を作ったものだと驚かされる。北条氏の支配者としての甚大な権力の大きさを感じないわけにはいかない。当時は、本丸、中の丸、二の丸、三の丸、小宮曲輪、他30の郭があった。
先ほども述べたように、この一帯は加住丘陵と呼ばれているが、東は多摩川による浸食崖、西は谷地川の谷がある。本丸は崖の上に立っていて、秋川、多摩川を見下ろす位置にある。侵食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50~80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。
 この地形が選ばれたのは第一に南下してくる上杉軍を発見できること、そして反撃のために態勢を整える時間が稼げること。第二に逆に北条氏が北進しやすいこと、第三は多数の人馬を収容できてその飲料水が確保できることがあげられるでしょう。

 滝山城は、戦国時代の丘山城として昭和26年(1951)八王子城とともに国指定の史跡となっており、中心部分と周辺がよく整備されているのでお勧めできる。規模は広大で東西南北とも約750mで、氏照がいた頃の遺構を今に残している。

 平成8年に新たに発見された石畳は通路をふさいだ痕跡が見られるということで、廃城の意図が覗えるとか。中の丸と本丸を結ぶ橋は、八王子城にもあった「引く橋」で、下は10メートルもある切り通しとなっている。滝山城の北側は多摩川にのぞむ絶壁だが、南側は緩やかな傾斜で、車で楽に登れるほどだ。また、滝山城を歩いてわかるのは平城であることだ。
 それどころか、城の中心部が周囲よりも低いのである。これでは城を見渡して中心部より指令を出すことができない。城外の敵の動きを城の中心部にいて把握することが出来ないのである。また城の構成上、南側の一角が破られたとき東と西に分断されてしまう。中央にある谷と用水池が効果的な反撃の妨げてしまう難点を持っていた。言ってみれば、滝山城は数千の攻めに対しては防御ラインがとれても万を越す敵にはこれを防ぎきることは出来ないということになる。また、言い換えれば「攻撃には有利」だが、「防御には不利」ということである。特にこの時代となると鉄砲が戦に導入されているはずで、そうなるとますますもって撃たれやすく、危険な城というわけだある。
 大石時代には本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮曲輪など の曲輪群は北条氏照時代に拡張されたものといわれている。

 ところで、本丸跡の石碑にはこう記されている。「この城は関東の名城といわれ天文5年(1536年)北条氏康、同21年(1552年)上杉謙信、永禄12年(1569年)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けた」と。そう、つまりは、この城は3度の攻撃に耐えたとい城ということだ。

 しかし、史料の裏付けがあるのは信玄の来襲だけである。信玄は今川氏を逐った勢いで、永禄十二年(1569)碓井峠を越えて上野国に入り、武蔵鉢形城の北条氏邦、さらに滝山城の北条氏照を攻め、次いで小田原城を包囲した。

 滝山城を攻めるに当たっては、信玄は、2方から攻める作戦に出た。小田原攻撃に向かう武田軍本隊は、武田勝頼を総大将に8000から1万の軍勢が、上州から大菩薩峠を越えて本陣を多摩川の対岸拝島においた。そして滝山城を攻撃、多摩川の北、拝島に本陣を置き、小田原方面と連絡する街道筋を閉鎖して、滝山城を包囲した。一方、別働隊の小山田信茂隊が小仏峠から侵攻した。 滝山城方は、これを当初予想しておらず、高尾十十里で迎え撃った。氏照の軍勢は善戦したものの敗退、小山田軍は、この勢いにのって滝山城へと迫った。戦闘は苛烈を極め、三の丸まで落ちたが、氏照は二の丸を死守した。氏照自身も手傷を負いながら槍を振るって奮戦したと伝えられる。まさに落城寸前であったといえる。

しかし、武田軍の本来の目的は、小田原城にあった。北条氏と越後の上杉謙信との連携を断ち切るため小田原の北条氏を牽制することが目的だったのである。このため、3日目にして滝山城攻撃を中止、小田原へと転進していった。これにより滝山城は落城だけはなんとかまぬがれた。

 戦略的見地からはこの滝山城は、城域及び支配地が戦場とならない限りその欠点をさらけ出すことはなかっただろう。その欠点は勝頼軍の城内中心部までの乱入という形で明らかにされたわけである。また甲州に対する防御の考え方と鉄砲対策の不備が明らかになった。この合戦の十数年後、氏照は、独立した険しい山により堅固な八王子城を築城すべく、とりかかり、すぐさまそこに引っ越したのだった。平城の滝山城の弱みを知ったからだというが一説には「滝は、水が落ちて流れるから縁起が悪い」といったとか。

 ところで冒頭の句は、沢井益三氏のものである。氏は八王子市の高月生まれで、村役場で業務の傍ら、昭和12年に「滝山古城址保勝会」を作り、この城を全国観光百選に応募し当選させた実績も持つ。

            京王八王子・JR八王子駅北口から西東京バス              左入経由戸吹行きまたは谷野経由杏林大学行き                  「滝山城跡下」下車 徒歩15分

 



 


» ホームに戻る