高尾観光案内


  

高尾駅東側の名所・旧跡

 

月夜峰


 
 共立女子大キャンパスの最も高いところに「月夜峰」の碑が立てられています。

 元八王子町2丁目の東の端にあたり、長房町と横山町の境のこの一帯は「月夜峰」と呼ばれ、この辺では絶景の場所であり、東西南北が見渡せる場所でもあります。別名「月宵峰」「月見岡」「月見ケ岡」。

 天正18年(1590)築城間もない八王子城は、悲劇的な落城を迎える。城内に詰めていた将兵・婦女子に至るまですべて討死あるいは自決という実に凄惨なものであったという。北条氏の小田原本城が豊臣秀吉により包囲される中、関東各地の支城は豊臣家臣の前田利家、上杉景勝等の北陸支軍によって相次いで攻略されるところとなり、八王子城もついに城攻めの手が迫ることとなる。大手門から城攻めを敢行した一隊は西八王子駅北方の横川町辺りから南浅川北岸に延びるここ月夜峰を辿って元八王子に入り、城山川沿いに谷筋を通って大手門に迫ったものと思われる。

 八王子城主の北条氏照はたいそうこの場所がお気に入りで、よくここで月見の宴を開いたといわれます。八王子城の悲恋でもおなじみの安寧姫が、笛の名人である狭間の隼人と知り合ったのがこの場所です。

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歴史新書y 003村人の城・戦国大名の城 北条氏照の領国支配と城郭/中田正光

おついで地蔵


 
 横川から高尾へ抜ける高尾街道の石神坂のバス停のそばに小さな祠があります。この祠の中には顔立ちが摩耗しかかった地蔵が祀られていますが、「おついで地蔵」と呼ばれ霊験あらたかなことで古くから知られています。
 「おついで地蔵」の由来は、聞くところによるともともとはこのあたりの皆さんがこの地蔵さまからすぐのところにある日枝山王神社にお参りに行った帰り、そのついでに寄ってくるお地蔵さま、とのことらしいのです。
 通常、願掛けは殊勝に出向いて行うものだが、この地蔵は何かのついでに願掛けすると大願成就するというからおもしろいですね。




武蔵陵墓地



 高尾山のふもとにある武蔵陵墓地は、広大な敷地のなかに、大正天皇の多摩陵、貞明皇后の多摩東陵、昭和天皇の武蔵野陵、香淳皇后の武蔵野東陵の4陵があります。昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵(たまごりょう)と称していたが、現在でも通称として使われています。


いずれも上円下方墳。総門をくぐると参道は北山杉の並木と白い玉砂利が美しく、何とも神々しい気持ちに包まれてくる。

武蔵野 大野の奥の静もりに しづまりたまふ 大御霊かしこ   御民われ 草履うちはき 笠かうぶり もうでまいらむ 野の御陵に                                  若山 牧水


 天皇の墓は「陵」(みささぎ)といい、一般的には「天皇陵」(てんのうりょう)、「御陵」(ごりょう)などといわれています。
 歴代天皇の陵墓のうち初めて東京近郊に定められたのが大正15年12月25日に崩御された大正天皇の御陵墓。この年公布の皇室陵墓令には、将来、陵墓を営建すべき地域を「東京府及びこれに隣接する県に在る御料地内」としている。これに基づき翌年1月3日の宮内省告示をもって「武蔵陵墓地」の名称と当時の南多摩郡横山村、浅川村、元八王子村所在御料林地内の陵墓地が決定された。

 大正天皇陵は横山村大字長房字龍ケ谷戸にあたる。高尾駅前から甲州街道沿いの約4キロにわたるいちょう並木は、昭和2年2月に多摩御陵が開設されたとき記念に植樹されたもの。
素木の鳥居を前に大正天皇の多摩御陵これに隣接して貞明皇后の多摩東陵がある。両御陵とも石積みの上円下方墳で、墓域は約2700平方メートル。平成2年(1990年)には、多摩御陵と同じ上円下方墳の昭和天皇の御陵「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)、さらに平成13年(2001年)には香淳皇后の御陵「武蔵野東陵」がそれぞれ造られました。
 敷地は広大な庭園になっており、紅葉シーズンには地元の方や、参拝者などが訪れる憩いの場にもなっており、近くにある高尾山と並んで、紅葉狩りの名所ともなっています。

 総門手前右手の小丘は「庵の山」と呼ばれ、鈴木正三(しょうさん:1579~1655)が草庵「堅叔庵」(けんしゅくあん)をかまえた旧地で、今は御陵域内になっている。参道北側の長泉寺には正三の座像があり、その墓も寺の墓地にある。正三は、三河の生まれ、徳川の旗本として活躍したが42歳で出家し、宗派宗門にとらわれることなく身分階層を問わず万民のために独特の「仁王不動禅」を力説した。近世仮名草子本の代表作「因果物語」や「二人比丘尼」の著者でもある。

京王八王子駅・JR八王子駅北口から「館ヶ丘団地」行きバスで「御陵前」下車徒歩15分。
または、JR高尾駅北口下車徒歩15分。
            参拝 9:00 ~ 15:30

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陵南公園



 陵南公園は多摩陵へ行く途中にある南淺川橋を渡って左手にある。西方に高尾、陣場の山並みを望む、明るく開放的な公園。

公園は南に南浅川が流れ、北に武蔵野陵参道が弧を描いて、ほぼ半円形の形状をしている。中央には野球場があり、その周囲を散策路が巡っており市民の憩いの場となっている。
公園の東側、南浅川を渡る橋の袂が公園のメインエントランスで、駐車場や管理所が置かれ、野球場の南側に通路が延びている。駐車場は、20台分ほどが駐車可能だが休日などには満車となっていることが多い。

 川を挟んで斜向かいには幼児用遊具や市営プールがある分園があります。本園側にはジャブジャブ池があって、夏になると一度清掃が入って、その後幼児向けに無料で開放される水あそび場になります。

 11月には「いちょう祭り」のメイン会場になったり、春には春にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、枝垂桜、八重桜が咲いてお花見と気候のいい時期にはいつもにぎわっています。

 この公園は1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックの際に自転車競技場として用いられた場所を後に整備したもので、1968年(昭和43年)に開園している。写真の最初のものはオリンピック自転車競技金メダル受賞者碑で、陵南公園事務所前にありますす。
またこの公園の西口には鎌倉街道が通る古道橋がある。  


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さいかちの木



 現在の南浅川は両界橋で甲州街道を横切つて北流していますが、万治年間(1658~1661)には神明神社の真下で東流し、浅川駅(現、高尾駅)前を流れていたといわれます。村境を南浅川が急角度に曲つているため増水するとたちまち氾濫、現在の浅川町(高尾町浅川地区)一帯を水びたしにしては農民達を苦しめていました。
 
 これを憂うたのが郷士格(武士待遇の身分)をしていた設楽杢左衛門でした。自分の余生と全財産を放り出し公儀に願い出て治水工事にとり掛かりました。設楽杢左衛門は急曲する川筋を北に変える治水工事を行うべく、約七ヵ年間の年月を費やして、これを完成させたとされています。苦心の末工事が完了するや杢左衛門は護岸のため根がひろく強く張る「さいかち」の樹を両岸に数百本植えました。

 さいかちは、ジャケツイバラ科(またはマメ科)サイカチ属の落葉高木で、別名カワラフジノキ。日本の固有種で本州、四国、九州の山野や川原に自生しています。5月頃に黄緑っぽい薄い色の小さな花をつけて秋になるとサヤエンドウを30〜40cmくらいに大きくしたような実がなります。アカシアの木のような葉の広葉樹です。陵南公園のそば、南浅川橋の北側にサイカチの木が1本ある。

 「自然と史跡の探訪ガイド 高尾駅界隈」(高尾駅南北自由通路促進委員会 2001)によると、樹齢400年を超える古木と言われているとのことである。これが、おそらく杢左衛門が植えたさいかちの木ではないかと考えられています。
 

日光神社



 鈴木正三は仏教者として有名ですが、生まれは三河則定城主鈴木重次の長男です。慶長5年(1600)徳川秀忠軍に従って信州真田で初陣。大坂の陣にも従軍して、慶長20年(1615)二百石を賜り、旗本となりました。

 歴戦の勇士であったが、元和2年(1620)42歳の時、多年の宿願である出家の身となり、八王子の豪族井上出羽に招かれて、草庵「堅叔庵」(けんしゅくあん)をかまえた。

 日光神社は堅叔庵のあった山の北東につながってあります。祭神は徳川家康です。これは鈴木正三が徳川家康から授かった刀を寄贈したことから命名されたといわれています。
 なお、多摩御陵総門手前右手の小丘は「庵の山」と呼ばれ、鈴木正三の遺構がある。

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東照寺




 洞宗長房山東照寺の創建は永正元年(1504)。 本尊は十一面観世音菩薩。東京陸軍幼年学校が昭和20年8月に米軍機の焼夷弾で爆撃を受けた際に戦没した幼年学校生徒と職員十名の霊を祀る東幼年観音が境内にあります。
 傍らの「建武台」の碑は当時の生徒が正面にあたる横山橋の南側に建てた場所から移動したものです。入口を 入ってすぐ左の塀際に山門、細工が細かく豪華 な山門ですが、普段は閉まっているため庫裏の前の道を 左に行くと、本堂が見える。その左に客殿、その左に墓 所への道、その左に寂光堂(納骨堂か)と慈恩閣がある。本堂の裏一帯は墓所となっている。        

長房町1267     




長泉寺


 長房丘陵の南側にある臨済宗南禅寺派玉鳳山長泉寺は,応仁元(1467)年の創建と伝えられていますが、 焼失のため詳細は判りません。 元は,多摩御陵の 敷地内にありましたが御陵造営にともなって現在地に移転しました。市指定有形文化財の石平道人の木像「木造石平道人坐像」があり、また長泉寺横の丘の墓地には市史跡の「石平道人墓」 が弟子の恵中の墓と共にあります。

石平道人(本名鈴木正三(しょうさん))は三河国足助の武家出身で、徳川家康の兵として関ケ原や大坂で戦功をあげた後、元和6年(1620)に42歳で江戸で出家して諸国を回り、やがてこの地に庵を結んだといいます。「因果物語」「破切支丹(やぶれきりしたん)」「麓の草分」などの著作があります。
 下長房村に堅叔庵を建てましたが、明冶になって多摩御陵造営に伴い長泉寺に合併され、本人の墓と弟子恵中の墓、碑文とともに現在地に移されました。

 木造石平道人坐像の作者不明だが江戸初期の作で高さ33. 5cm、写実的な像とのこと。普段は非公開です。お墓は長房団地側からお寺に通じる道沿いのお寺より手前で、教育委員会の看板が立てられているので見つけるのは簡単でしょう。

交通:高尾駅下車,バスで甲州街道の御陵前バス停下車、多摩御陵参道を400mで最初の信号、これを右にとり200mでまた最初の信号、これを左に取り100m

 


出羽橋


 高尾の北、住宅地の城山手に「出羽山公園」(右写真)があります。このあたりは『新編武蔵国風土記稿』や『武蔵名勝図会』によると出羽山、大名屋敷の名称で記されているが、八王子城の外郭の重要な出入り口の一つであり、その防衛のために北条氏照の重臣の近藤出羽守助実が砦を構えたものと思われます。

 近藤出羽守は北条氏照が小田原から養子に入ったときに北条宗家から付き従った古くからの家臣の一人であり、氏照の重臣として各地を転戦しています。
 彼は八王子城で豊臣軍と戦い討死してしまいますが、彼の本来の屋敷は八王子市館町の浄泉寺城であるため、ここはやはりあくまで八王子城の前衛の砦であったと考えるのが適当でしょう。
付近には、出羽橋という橋もあり、近藤出羽守の名を思い起こしてくれます。
公園化のために遺構の判別が難しいですが、武蔵の古城址の著者、小幡晋氏は城山川にかかる出羽橋から城跡の場所を推定し遺構を確認しているそうです。




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