高尾の豆知識 


  


 高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。

 この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。

 真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。



2-8.江戸っ子だってねえ、関東綱五郎


 「江戸っ子だってね、スシ食いねえ、酒飲みねえ」、金毘羅参りに行く森の石松が船の中で有名な次郎長の子分は大政、子政、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、宝印大五郎、増川仙右衛門、追分三五郎とすしをすすめおだてながら自分の名前が出るのをいらだちながら待っている「清水次郎長伝」の内「石松三十石船」の一場面は有名だ。

 さてここで出てくる「関東綱五郎」は、旅の途中で出会った黒目の五丁徳からの喧嘩の使いで来た折、次郎長が自分を斬らずに帰したことに意気を感じ、桶屋の鬼吉に続き、2人目のおしかけ子分となる。映画や講談では、ややお調子モノ的なところがあるものの、見かけによらず冷静で意外と頭が回る面も持つ愛すべき存在として描かれている。

 この「関東綱五郎」は、ここ高尾山麓の住人であったようだ。
 高尾、落合の集落に口留番所という関所があったが、この付近に八王子を中心に活躍した鈴木家という千人同心の大きな屋敷があった。この屋敷こそが、関東の綱五郎の家だったのだ。甲州街道(国道20号)の端にその碑がある。「侠客関東綱五郎住居跡」関東綱五郎が生まれた家の跡にはそれを示す石柱が建てられている。講談でも人気の関東綱五郎は、現在の高尾町(旧字:落合)に生まれる。親戚とのいざこざが原因で、旅のわらじを履くようになったと言われいますが荒神山では、博打がもとで起きた喧嘩に、大政、小政らと乗り込みます。清水の次郎長の子分を経て、京都で火薬商を営み、成功を収めた時期もあったようですが晩年は故郷に戻って暮らして明治19年(1886年)に亡くなっています。

 なお、高尾駅前の大光寺は、明治五年(1882年)本堂、庫裏等すべて焼失し、庫裏は関東綱五郎の旧宅を移築し現在に至っています。お墓も、この大光寺にあります

また、落合山寄りの墓地には、末裔によって「関東綱五郎墓之跡」と刻んだ碑が建てられている。
碑陰に綱五郎についての説明がある。


鈴木綱五郎は鈴木家の六代目に当たり祖先は甲州武田氏滅亡により旧浅川村落合に移住す。 文政五年(一八二二)に生まれ青年期は幕末に当り世は騒然とし狭い浅川村に座すことが出来ず家を出て関東綱五郎と名乗り侠客の仲間に入り遂に清水次郎長の門を叩きその客分となり世に名を挙げ初老期に帰郷して村民の面倒を見る。当時の住居約四十五坪総欅作りの家屋を明治十年頃菩提寺の大光寺の庫裏に納め隠居し明治十九年十一月歿す。墓は昭和五十二年三月二十七日大光寺構内に移転す。

   昭和五十二年七月十三日 実孫 故 持田ツネ
                八代目嗣子 医博 鈴木幸雄
                実孫の夫   医博 持田治郎



 

 



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