高尾の豆知識 


  


 高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。

 この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。

 真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。



2-23.千人同心達の心の支え 松姫


 八王子と言えば「千人同心」の町であるが、その千人同心達の心の支えとなったのが信松尼こと「松姫」と言われている。

 松姫は永禄4年(1561年年)9月、躑躅ヶ崎館(信玄の居城)で誕生した。父は武田信玄、母は側室の油川ご寮人で四女とも六女とも言われる。信玄は其のころ上杉謙信と川中島で合戦中であり、その日の戦いから信玄が帰陣した際、早馬で姫出生の知らせが届いた。ふと眼を転ずると傍らには、大きな松の木がありこれにて戦勝間違いなしとして「松姫」と命名するよう伝達する命を発したという。つつじが崎屋敷では特に可愛がられ新しい館も建てられいつしか新館の姫と呼ばれるようになったという。

 松姫誕生の4年後、永禄八年(1565)信長の娘が信玄の息子勝頼に嫁ぐという形で武田・織田に姻戚関係が結ばれた。 もっとも、信長の娘といっても実子ではなく東濃の苗木勘太郎の娘を養女として引き取り嫁がせているようだ。 ところがこの娘、遠山夫人は翌々年に亡くなってしまう。 

 あらたな絆として選ばれたのが信長の嫡男奇妙丸(信忠)と信玄の娘松姫との婚姻である。しかし、清和源氏の流れをくむ武田家と小豪族の織田家とは格差がありすぎた。武田家武将の多くはこの婚約は反対したという。だが上洛して全国制覇を目論んでいた信玄はこの婚約に同意した。松姫と信忠の婚約は、勝頼の正室・嶺松院殿が死去したため、永禄十年(1567)に行われた。松姫7歳、信忠11歳の時であつた。 しかし、やはり松姫はまだ幼いため躑躅ヶ崎館の近くに新館を設けそこに移らせた。 このことから、甲斐では松姫を新館御寮人と呼んだという。

 婚約が成立した早々から織田家からは数々の結納の品が届けられ、信忠からは文が届けられた。松姫からは折り鶴が奇妙丸に届けられた。信長が贈り物や文をまめに送るよう信忠に言い聞かせていたそうだ。 松姫も信忠へ頻繁に文を送る。 今ならば、電話やメールで遠距離恋愛というところだろうが、政略結婚とはいえ若い二人にとってこうやってたびたびの文通をして恋仲になっていったのでしょう。

 しかし、世は戦国、何事もなければ天下人織田家に嫁いで、姉妹の中で一番華やかな生活を送るはずであった松姫に不運が始まる。いよいよ輿入れも間近という頃、二人は引き裂かれてしまう。 1572年(元亀3年)10月、武田軍は遠江の三方が原に出撃、徳川軍と一戦を交えたのである。この時、織田が徳川に三千の援軍を出したということが信玄に伝わり、この婚約は絶縁状と共に解消された。武田と織田か抗戦状態に入り、松姫と信忠は仇同志という立場に一転したのである。信忠15歳。松姫11歳の時だった。

 しかし、松姫も信忠もまだ見ぬ決められた相手への思いは消える事は無かった。この間、武田家嫡男義信は自刃、信玄本人も病がもとで1573年(元亀4年)53歳で亡くなってしまう。

 四男、勝頼が武田家の跡目を継いだものの無理な戦を続け、戦況は思わしくなかった。天正3年(1575)長篠合戦に敗れた武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に追いつめられると、勝頼は盛信を南信濃の防衛の為に高遠城主に任じた。松姫も一緒に高遠城に入った。
しかし、織田の猛攻が伝えられると、この地から逃避するしかすべはなかった。盛信の娘(督姫)と腹違いの兄勝頼の娘(貞姫)、人質である小山田信房の養女、4歳の香具姫らを連れて十数名の供とともに逃避の旅へと甲州路を東へと向かう。 開桃寺(現在の海島寺)に7日程隠れていたが、織田の大軍は伊那の諸城を落城させている。高遠城では織田軍が城をとり囲み、その後陥落して盛信が自刃した。危険が迫ってきたので大軍の驚異が迫る中、塩山の向嶽寺に逃れかくまわれた。武田は天正9年(1581年)5月設楽原で織田・徳川の連合軍と戦い惨敗した。

 天正10年(1582)、織田軍に追い詰められた武田勝頼が味方の裏切りもありついに天目山麓の田野で自刃し武田が滅亡した頃、松姫ら4人は大菩薩峠を越えて険しい甲武国境の山並みを越えて武蔵に落ち延びてきた。織田軍の残党狩りは熾烈を極めた村人達も山奥深くまで逃げ込んでいる。寒さや雨、幼女をかかえた逃避行は松姫さまにとって大きな試練だった。甲州栗原の海洞寺へ逃れ,さらに陣馬山を越えて案下山中に隠れる。

 山里では松姫の美貌に、多くの若者や郷士から結婚の申し込みが絶えなかったが、松姫の心は動かなかった。 松姫は落ち延びるに際して信盛の娘と勝頼の娘を預かっていた。 ここで農耕や縫物に励み幼い姪達の面倒を見続けた。しかし、ここで武田の滅亡と同母兄信盛の死も知ることとなる。

 一方そのころ信忠は、松姫の生存を信じて探していたという。ようやく松姫生存の知らせは甲府にいる信忠の元にももたらせれた。信忠はもう一度あらためて松姫を娶りたいとの使者をおくり松姫に対し結婚の約束を実行する長い手紙を送る。松姫も再び送られてきた手紙に喜びを見い出した。北条氏照の配慮で上野原で織田信忠からの迎えの「輿」を待つ事となる。約束の上野原に到達した松姫達一行は「輿」の来るのを待った。早朝から昼そして午後になったが信忠からの迎えの「輿」はやってこない。

 そのときあわただしい知らせが届いた。織田信長、本能寺にて死す。 織田信忠 妙覚寺で死す。1582年(天正10年6月)松姫は茫然とたちつくす。悲しみの中、当時北条領だった八王子城下の下恩方にある心源院の卜山舜越により剃髪、上恩方の心源院の別院で草庵を結んだ。法名は、「信松」。 信忠の一字でもあることに意味があるのだろうか。 信松尼22歳であつた。

 さて、江戸に入府した徳川家康は、甲武国境の警備を完全なものとするため、武田の遺臣を集めて八王子に千人同心を組織した。千人同心達は武田の旧臣として松姫を心から敬愛し、精神的、経済的に支援を惜しまなかったと伝えられる。遺臣たちにとっても信松尼の存在は象徴的なものであったのかもしれない。 叉、家康は関東の総代官所を八王子に置き総代官には大久保長安が任命された。大久保長安もかっては武田の家臣だった。もともと家康は武田信玄を崇拝していたので、松姫が八王子にいるのを知り、寺領を贈り、消息も尋ねられたが、凛とした態度は変わらなかったという。

 天下は家康の時代となり江戸幕府300年の礎ができた。松姫は、侍女たちとともに蚕を飼い、染物をそめ、機を織って生活する事となったが3人の姫を育てるのは大変な苦労でしたが武田一族の菩提を弔られながら、近隣の子供たちには手習いを教えたりして土地の人々から慕われました。この時に松姫が伝えた織物が後世八王子織物として発展していくこととなったのです。 

 1616年(元和2年(4月16日)、ただ一人の男を生涯愛し続け、戦国の時代を力強く生き抜かれた松姫は、温かい人々に看まもられながら眠るが如くに56歳でその生涯を閉じた。案下にいたころから心源院の舜悦に師事し,臨終に際し,邸を捨てて寺とするよう舜悦に遺言し、没後10月徳川家康に仕えた旧武田の家臣たちの援助をうけて八王子信松院が建立される。法名 信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌日17日には徳川家康もなくなり、日光東照宮に祀られた。その守護に千人同心は日光東照宮の火の番として勤める事になった。

 墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。また一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科盛信の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。仁科盛信の孫・仁科資真が尼公百回忌に寄進した木製軍船ひな形と寄進目録は東京都指定文化財。この軍船は朝鮮出兵の時、小早川隆景軍が使用した軍船の小型模型といわれている。また、木像松姫坐像は市指定文化財。



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