高尾の豆知識 


  


 高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。

 この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。

 真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。



2-16.十々里(とどり)の古戦場


 JR中央本線高尾駅の北、多摩御陵、農林水産省農林技術総合研究所のある一帯が廿里(とどり)です。十々里古戦場は廿里古戦場とも書き、「とどり」と読みます。
地名は、(1)京都から百里あるので十十里で廿里となったとする説、(2)京都の高雄山に対する砥取(とどり)の地名が高尾山にも持ち込まれたとする説があります。

 ここは永禄12(1569)年10月1日、武田信玄の武将小山田信茂と滝山城主北条氏の重臣達が一大血戦を行ったところです。JR高尾駅から高尾街道にそって少し登っていくと表示が出ています。今は全くその跡形はなくこの地の地名からしのばれる程度です。

 永禄12年、甲州の武田信玄は、北条氏康の小田原城を攻めんとして甲州(山梨)を出発し、碓氷峠を越えて武蔵方面(埼玉)の北条氏の出城を次々と攻略しながら南下して滝山城を攻めるため拝島に陣をしいた。滝山城主北条氏康の3男氏照は滝山城にいて、氏照の家臣だった布施出羽守、横地吉信、中山家範らがが廿里砦を守っていました。

 一方信玄の武将小山田信茂は、当時、たいへんな難所とされていた小仏峠を越えて滝山城に向かった。小仏峠はとても馬で駆け下りることなど想像できない、難所中の難所でした。小河内もしくは檜原からの侵攻を予想していた北条方は意表を突かれ、氏照が命じて横地監物・布施出羽守らが急ぎ300騎と2000の兵を引き連れて、これを十々里(廿里)の原で北条軍と血戦となった。

 しかし、すでに十々里山は小山田勢がいち早く陣しており、騎馬200と歩兵900を巧みに配備して北条勢を逆に迎え撃ち、北条軍は、氏照の重臣、横地監物、中山勘解由、布施出羽守という精鋭部隊であったが野村源兵衛や金指平左衛門らの勇将を討ち死にさせ、散々に敗れ去った。結果は一戦にして北条軍が敗れ去ったとされる。この時に小山田軍があげた首は251といわれ、信茂は200騎を40騎ずつ5手に分け、前方・側面・後方から攻撃する「鳥雲の陣」(鳥のように集まり、雲のように散る)の戦法を採用したという。この後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、氏照は二の丸から指揮し、攻め手の将・武田勝頼は、三の丸で氏照の家臣・師岡山城守と数回、槍を交えたと記録されている。一方的な攻撃であったがどうにか落城は免れた。         
 廿里町には、この時八王子城防衛の前線に武田氏攻撃に備えて築いた防塁の跡が残されている


 滝山城は北側は多摩川まで絶壁であるが、南側は標高差が小さく、落城寸前まで攻め込まれた。また、従来甲州勢が来ないと考えられていた小仏峠を小山田隊が越えて侵入してきたことから、氏照は小仏峠に近い要害の地に城(八王子城)を築城することを思いついたと考えられる。



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