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高尾近辺の城跡


城跡

浄福寺城跡

JRもしくは京王線の八王子駅から「陣場高原」行きのバスに乗り、松竹という停留所で下車。西へ少し歩いて陣馬街道の中程、圏央道の下をくぐると間もなく浄福寺があり、城は寺の裏手の山上にある。車で行く場合は、寺の駐車場をお借りすると良い。墓地を抜けて、石造の観音様が並ぶ観音堂への参道を登ると山頂の主郭に辿り着く。小曲輪、堀切から竪堀、畝堀など、良好な形でよく残っており、中世の山城、北条流の縄張りを研究したい人には手頃に登れる山城ですが史跡としての整備がなされている訳ではありません。昭和59年(1984)2月に行われた調査で、郭・土塁・切掘・土橋などが確認されました。中世城郭として,また大石氏の経緯を知る上にも貴重な城跡です。

この浄福寺裏山一帯は,標高360m,比高150mの山城で,新城(にいじょう)・案下城(あんげじょう)・松竹城(まつたけじょう)・千手山城(せんじゅさんじょう)と様々の呼び名を持つ浄福寺城の城跡です。千手観音が奉られています。千手観音様は秘仏で毎年4月17日だけのご開帳だそうだ。なお、この寺に伝わる文書によれば,この寺はもともと「城福寺」といっていたそうです。城の構築方法を滝山城などと比較すると、浄福寺城が古いと考えられています。

城主郭部は千手山(356.4メートル)一帯で、寺は城主の居館跡ではないかと言われている。城の築城については諸説があり、明らかではありませんが『新編武蔵国風土記稿』では、“大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし”とあり、大石定久の築城を思わせる記述がある。大石氏は,系図(山木伊藤家伝)によれば,木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが,  延文元年(1356)入間,多摩に十三郷を得て多摩に移住し,次第に大豪族となり城を移したといわれる。定久は山内上杉氏の重臣であったが、その後北条氏の力が強大になり北条氏康の子・氏照を養子に迎えることで北条氏の傘下に入った。氏照に家督を譲った大石定久(道俊)はここに移ったという説もある。大永7年(1527)上杉憲政は体制離反者大石氏への制裁のため松竹城を攻撃した。不意を突かれた大石方は、城兵のほとんどが討ち死にしたと伝えられる。

八王子城の北方にあり、搦め手の恩方谷や甲斐へと通ずる陣馬街道を一望することができる。この方面からの侵入に対する監視・抵抗の拠点として、重要な役割を果たしていたと考えられる。ただし、八王子落城の時にここで戦闘が行われたかは定かでない。こういったことから、築城については二宮から本城を移したと言うより分家(支城)と考えたほうがよいようである。しかし、甲斐国が武田信虎によって統一されたのは大永元年(1521)なので古案下道を押さえるほどの必然性はなかったと思われる。大石氏は北条氏に吸収されるまでこの地方に勢力をもっていたわけなので所領内にいくつかの城館をもっておりこの城はその中のひとつと見たほうがよい。世の中が平穏になってきたので山城を築く必要もなかったのだろうか。いずれにせよ、この城も八王子城の滅亡と共に消滅したいくつかの支城の一つなのである。

 
          八王子から陣馬高原下行きバスで「八王子恩方事務所」下車すぐ 

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現地説明板より
市指定史跡 浄福寺城跡(新城)

所在地 八王子市下恩方町三二五九
指定年月日 昭和四十七年一月二十七日

 浄福寺城は、新城とも呼ばれ至徳元年(一三八四)大石信重開城の案下城(大石系図)と考えられている。
 大石氏は、系図(由木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、延文元年(一三五六)入間、多摩に十三郷を得て多摩に移住し、秋多町の二宮から案下城、高月城(長禄二年)滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれる。
 現在の浄福寺の境域および後山には多くの遺構が見られ、中世城郭として、また大石氏の経緯を知るうえにも貴重な城跡である。

昭和五十三年二月三十一日
八王子市教育委員会


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