南多摩地方では、室町から戦国時代にかけて多くの在地武士が生ま れました。その代表的な豪族が木曽義仲の後裔といわれる 大石氏です。もとは信濃藤原氏(沼田氏と同族とされる)の後裔といい、信濃国佐久郡大石郷(長野県南佐久郡八千穂村大石)に住んでいたことから、大石氏を名乗ったといわれる。
その後、その末裔の大石為重は関東管領・上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334年(正慶3年)に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。信重は観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。その戦功として武蔵守護代(赴任しない守護に替わって実務を代行する代官)に任命されて多摩の地に支配を及ぼすようになりました。武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えたのでした。また、「武蔵国目代職」にも任じられたのです。目代職とは在庁官人達の監視役的立場で、ここ室町初期においては国人領主又は土豪達のまとめ役で大石氏は南多摩方面の在地武士による軍事同盟、南一揆(平山氏、小宮氏、二ノ宮氏、由井氏、立川氏など武蔵七党の旧西党のメンバーが構成員)を統率するのが目代としての役目でした。
その後、下恩方の案下道沿いの浄福寺城(二条城)へ移転して多摩に根をはった。次いで長 禄2年(1458)11代大石顕重の時、多摩川と秋川の合流点に高月城を築城して移ることになります。 混沌とした戦国期にあって、大石氏は関東管領上杉氏の重臣として活躍したのでした。
しかし、このように勢力を伸ばした大石氏でしたが、三浦氏を滅ぼした小田原北条氏が小机、津久井、玉縄、山中城を前線基地として武蔵侵攻の態勢を組んできました。そうなると津久井城から15km北に在る高月城は真っ先に北条方の標的にされるのは当然の事であり、このままでは北条の大軍を前に持ちこたえる事ができないと判断した大石氏は高月城よりも更に堅固な城の築城にせまられました。
大永元年(1521)第12代大石定重は、高月城から南東へ2km多摩川の河川沿いと甲州道との間の台地に滝山城を築城します。この丘陵は北西から南東に長く、多摩川に面する部分は40mほどの崖であり、この方面からの攻撃は不可能とされていました。加住丘陵の複雑な谷津地形を巧みに利用した天然の要害で、随所に空堀が掘られ、大小30近い曲輪が機能的に配置されていたのでした。
これで防衛態勢は磐石と思えたのですがそれから3年後の1524年(大永4年)江戸城代太田資高が主君扇谷上杉朝興を川越城へと追い出して江戸城を北条氏綱に明け渡してしまったのでそれまで江戸城方面に向けられていた北条氏の戦力は今度は全て 滝山城に向けられる事になりました。
さしもの滝山城もこのままでは、此れでは耐え切れないと定重の子、13代大石定久は、北条氏照を娘比佐の婿として迎え入れて滝山城を譲り、自身は五日市の戸倉城に隠棲したのです。領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏はほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったといえます。
多摩の名族としての誇り傷つけられた定久の隠退後は、入道して真月斎道俊となり、八王子柚木の永林寺で亡くなった家来の菩提を弔っていましたが、天文18(1549)年、野猿峠の頂きで腹かき切って相果てたと伝えられています。その後の大石氏は武蔵豪族の権威を保てず、北条氏の家臣団に組み入れられました。世は戦国時代を迎えていました。定久は、青梅辛垣城の三田綱秀、八王子城の横地吉信とともに多摩における三大悲劇の武将の一人と言われている。
なお、この永林寺は、もともと永麟寺と号していましたが、徳川家康がこの寺の林の見事さに、「名に負う永き林なり」と誉めたことから、この寺を永林寺と呼ぶようになったということです。
<参考文献>
・東京都の歴史 -児玉 幸多 監修-
・八王子市の歴史 -樋口 豊治 著-
・八王子辞典 -相原 悦夫他 著-
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