「城の日」の2006年4月6日、財団法人・日本城郭協会(杉並区)が選定する「日本百名城」に八王子城(八王子市)が選ばれ、このほど同協会から市に認定証が贈呈された。市は今後、来訪者用の駐車場を整備するなどして、名城のPRを進めていきたいとしている。 八王子城は、現在の同市元八王子地区に十六世紀後半、北条氏照が築城した山城。標高466メートルの山を有効に生かした戦国時代の山城である。武蔵地域で勢力を誇っていた北条氏の最大の支城で、一五九〇(天正十八)年六月、天下統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた前田利家と上杉景勝らの軍に一日で攻め落とされ、小田原開城のきっかけとなり、豊臣秀吉の天下統一への大きな足がかりとなった。 「日本100名城」は、優れた文化財や著名な歴史の舞台であることなどを基準に同協会が選定。姫路城、熊本城などが選ばれた。都内では八王子城のほかに、江戸城も選ばれている。同協会は、百城を巡ってもらうスタンプラリーなどのイベントを予定している。 PR 世界で日本で、中身で選ばれ、価格で支持されるグッドバランス・デスクトップ「eMachines」 「どこにも負けない」石鹸をつくろう!と開発された洗顔石鹸≪しっとり白い石けん≫
八王子城主「北条氏照」の名前は、あまり聞いたことがないひとが多いかと思われます。 小田原に本拠をおいた早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代、100年続いた北条氏は有名かと思いますが、氏照はこの三代氏康の次男で氏政の弟にあたる人物です。
滝山城にいた大石定久の養子となり、成人して大石源三氏照と名乗ります。大石氏は滝山 城を本拠として埼玉県や多摩に力を持っていました。当初氏照は滝山城にいましたが、永禄半ば頃から北条氏が下総、下野、常陸方面へ進出するための軍事責任者として活躍し始 めました。いってみれば北条軍を代表する戦上手の氏照軍、北条軍団のエースとなっていくわけです。しかし氏照が力を発揮したのは戦だけではなかったのです。外交面でも大活躍して、会津 の芦名氏や出羽米沢の伊達氏とも信交を深めていきます。しかしその後氏照はこの滝山城 から八王子城に移ることを計画します。八王子城については詳しい記録が現存しないので いつ頃築城したのかまだ不明な点もおおいのですが、豊臣秀吉を意識して築城したというのが定説になっています
氏照は早くから自分の居城を八王子へ移したかったようです。というのもこの地は二十日 市場を中心とした経済的にも栄えていた場所でもあり、また宝生寺や高尾山薬王院などの 伝統的な寺院、神社を多数有する聖地でもあったからなのです。さらに、鎌倉街道や甲州 への街道が集中する交通の要衝でもあり、まさに軍事的な重要拠点でもありました。もと もと八王子城の南には十十里山という防衛拠点が置かれていたのですが、永禄12年に武 田信玄が小田原攻めの途中で滝山城を包囲した際、武田軍の部隊が小仏峠を越えてここに侵入し、ここを守備していた氏照軍を打ち砕いたといういわうる十十里合戦が行われ、これにより滝山城が落城寸前だったという苦い経験があります。これで氏照は八王子城を築 くことにしたのではと考えられます。 ちなみに八王子とは法華経にある仏教伝説で釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際 に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入ったという話に由来しています。この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられたというものです。 そのような聖地に、豊臣秀吉を意識し、戦闘用の城として移転するのが八王子城なのです。氏照が軍事の専門家だから滝山城では豊臣軍とは戦えないことを十十里の合戦から判断していたのでしょう。情報にも強かった氏照は豊臣軍とは本拠の小田原城で籠城戦になると考 えていたのではないでしょうか。 だから各城は少数部隊で持ちこたえられる造りにしておく必要を感じ、滝山城のような平地ではなく山城の形をとった攻めにくいし守りやすい八王子城を考えたのだと思われます。しかしそれが八王子城の悲劇を生み出すことになろう とは氏照は予想もしなかったでしょう PR PIAカードは最短5営業日でカード発行が可能になりました! 電子チケットサービスついに開始!PIAカードで更にお得に!
八王子城は、戦国時代の代表的な山城です。城山は本丸、松本曲輪(くるわ)、小宮曲輪、御主殿曲輪などを持つ城山と城山川の流れる谷を隔てた東の太鼓曲に大別できます。規模は広大で城全体の利用計画も複雑、築城にはかなりの年月をかけたと思われます。 また、間宮若狭守綱信は、天正8年(1580)に安土城の織田信長を北条氏照の使者として訪問している記録が残っており、このことは八王子城が、安土城をモデルとして築城されたのではという説もある。氏照は、この強固な八王子城の完成をまって移転するこころづもりであったろうが、結果的に八王子城は、未完成のまま天正18年に落城を迎えることになる。 さて、八王子城の個々の造りや仕掛けにつき見てみよう。 輪木製とはいえ長さ32メートル、幅4メートルの「引く橋」。引く橋というのは、もともと敵が攻めてきた時はずせるようになっていました。城内に引っ張りこめば、忍者も通れ ないというしろもの。橋げたは車輪付きで、車輪が並ぶところから「そろばん橋」とも呼 ばれたとか。橋のたもとの石垣もかなりの規模だ。優に5−6メートルはある。当時の関 東の城の石垣は大人の背たけから2.5メートルほどだった。 戦国時代の城は、江戸以降 のような天守閣や見上げる高さの城壁はなかった。土を盛った壁・土塁と空堀をめぐらす作りだ。八王子城は天正10年(1582年)ころから、北条氏が織田、豊臣軍に備えて 築き始めた。標高470メートルの山頂を中心に、石垣や曲輪(くるわ)と呼ぶ平地、見張り台、やぐらなどを配置した堂々たる山城だった。これも再建された城門を入ると、「千畳敷」の広場がある。古文書では大規模な御殿があったとされ、発掘調査でも中国の磁器や茶器、武器が見つかった。 しかし、まだ工事が続いていた天正18年6月23日未明 豊臣軍の上杉景勝、前田利家ら5万の兵が総攻撃をかけた。氏照や重臣らは小田原城にいて、留守部隊は妻子をふくめて数千人だったから、半日で落城してしまった。 司馬遼太郎 氏は『街道をゆく』の中で、豊臣軍を1万5000、城方は2000ほど、北条方の死者千余とし、「戦国期の戦闘としては惨烈な部類」と書いている。再建が始まり、毎月1万人の観光客が訪れる。発掘調査に従って、氏照がいた御守殿を4年計画で復元、家臣団の屋敷町に進む予定だ。全部を復元するなら最低20年はかかる、大事業である。 PR ★24時間ダイエット4週間でマイナス10kg
全国制覇を狙う豊臣秀吉と北条氏が1588年頃から対立し、北条氏は領内で戦闘準備を始めます。豊臣軍は前田利家を総大将に上杉景勝を加え上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してきました。 利家の率いる北国軍は、上野国の要衝でる松井田城を目指します。松井田城の守将は、北条氏の老臣大道寺政繁でした。彼は、北条氏の5指に入る名だたる武将であり、それだけに北条氏が松井田城をいかに重要戦略基地とみなしていたかが窺い知れます。大道寺軍は上野と信濃の国境である碓氷峠まで進み、北国軍を待ち受けました。碓氷峠は、天然の要害であり、必ずやここで北国軍を食い止めることができるとふんでいたようです。1590年、斥侯部隊である真田幸信の兵が大道寺軍と接触、ここで戦いの火蓋が切って落とされたのです。 緒戦は、真田軍が少数であったこともあり、北条軍が優勢を極めました。しかし、北国軍は、体勢を立て直すや一気にこの守りを突破し、北関東に侵攻し、松井田城を包囲したのでした。知将大道寺政繁は、頑強に抵抗し、一進一退となかなか決着はつきませんでいた。予想以上に抵抗する大道寺軍に、秀吉は、前田利家、上杉景勝に対し、総攻撃をしかけるよう指示、利家は、松井田城の水源を確保、景勝も松井田城の周辺の出城を徹底的にたたき、松井田城を完全に孤立させることに成功。こうして北国軍優勢に傾くや戦況は一気に展開、松井田城は陥落するのでした。要衝である松井田城を失った北条は総崩れとなり、間もなく上野の北条氏の城はほぼ全城が開城するのでした。利家達の大勝利といえるでしょう。 前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北国軍は関東北部から北条氏の支城を次々と落とながら 南下し八王子城に迫ります。北条氏に残された城は、本城小田原城のほかには、八王子城、岩付城(埼玉県岩槻市)、韮山城(静岡県韮山町)、津久井城(神奈川県津久井町)、忍城(埼玉県行田市)と鉢形城のみとなっていました。鉢形城も天然の要害で難攻不落の城とされていましたが、利家ほか前田軍が東から、上杉軍が南から、真田軍が北からと総攻撃をおこない、これに岩付城を落とした浅野軍が加わると、ついに開城となったのです。 利家・上杉軍は、これで勢いに乗り一気に八王子城に迫ります。ところで八王子城攻撃の前に前田利家、上杉景勝が石垣山の本陣に戦勝報告のために豊臣秀吉を訪ねたとき、秀吉はあまり喜ばなかったといいます。降伏を許すと共に時には城兵はことごとく殺戮することも必要だと側近にもらしたといい、これを聞いた2人は、八王子城を徹底的に壊滅させる決意を新たにしたというのが定説になっているようです。いずれにせよ、それまでは相手を降伏させ、開城させる戦い方でしたが、秀吉からそれでは見せしめにならぬと言われ八王子城は徹底的にたたくという腹積もりであったようです。 さて一方秀吉軍が小田原城に来襲すると北条軍の司令塔であった北条氏照は精鋭部隊と共に小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せます。八王子城を守っていたのは 横地監物、狩野一庵、近藤出羽といった老武将に率いられた農民、職人、山伏、僧侶や地 侍達だったといわれます。侍だけでなく山伏や農民、職人も駆り出され家族と共に八王子 城に籠城することになります。当時領地であった青梅の地侍達も北条氏照の強権の元に召集され、集合時間に間に合わなければ命にかかわると通達されたそうです。寺の鐘も供出されたそうで、戦が終われば返還するという借用書が青梅の安楽寺や玉泉寺などに残っています。 いずれにせよ、1万5千の北国軍に対し八王子城の守兵は千足らず、山城でどんなに守りやすいとはいってもひとたまりもなかったと思われます。 PR 2週間でマイナス5kg痩せちゃった 「NewTwoWeek」 ♪食べることを我慢しないダイエット!♪TVで特集されたダイエットサプリ
1590年6月23日の早朝から攻められ城方も奮戦しましたが1日で落城しました。八王子城守将の狩野一庵は戦死、横地監物は戦死したとも小河内まで逃れ自害したとも言われます 中山勘解由は奮戦ぶりを前田勝家に感心され降伏をすすめられますがすでに息子と孫を殺して自害してしまいます。後に感じ入った徳川家康は後に小田原に残っていた中山勘解由の息子を水戸徳川家に召し抱えます。 青梅の師岡氏などの侍も最後までよく戦ったそうです。しかし戦力の差はプロのアマチュアの差ほど大きく、秀吉−北条合戦の中で唯一の殺 戮戦でありました。また実際に戦った者たち以外にも八王子城にはその妻子たちが 多くおり、この人たちは、館の南にある御主殿の滝の上で次々と自刃しその滝に身を投げたといいます。これにより城山川はその川の水が真っ赤にそまりそれが三日三晩続いたと いわれています。 そして小田原城で八王子城の悲報を聞いた北条氏照は床を叩いて号泣したといいます。その後秀吉の命令で、小田原城に籠城している妻子を船に乗せ、海から小田原城にこぎ寄せ狩野ら討ち死にした老将の首を城中に届けさせ籠城軍の戦意を喪失させたといわれています。 また前田・上杉両軍は小田原を目指して八王子を通過の際、相模に向かって行軍する中に、八王子城で捕らえられた婦女子が、ぼろぼろに破れた着物を身に纏ったみすぼらしい姿のまま歩かせ、これが小田原城の開城を早めたとする研究もあるようです。いずれにせよ八王子城の陥落は小田原城に籠城していた北条軍の志気を失わせ、7月に開城することになりました。北条氏照も兄氏政ともに切腹しました。 秀吉の小田原攻めのなかで、八王子城の落城が特に語られるのは、このように八王子城の落城は唯一の殺戮戦であったからでしょう。八王子城は、まさに地獄攻めとも言われる猛攻を計画されます。木村常陸介が出した「落人取締触書」によると「八王子城よりの落人が逃げた先から帰ってきたら知らせるように、またよく捜して見つけ出せ」とあり、北条方は、一人たりとも逃がさじときびしいものだった。 天正13年の秀吉といえば、関白となりまさに得意の絶頂であり、徳川家康を臣下につかせ、島津や北条など辺境の地の小さな存在にしか見えなかった時期でしょう。 秀吉の自信は、相手の実力を十分に調べあげたものであるのに対し北条の自信は家柄によるものだったともいえるでしょう。実力差に気づかないまま抵抗を続けた北条、特に最高権力者であった氏政の凡庸に犠牲となったのが、八王子城であったかもしれません。 秀吉は敵対する相手には皆殺しの態度をとってきましたが、すぐに降伏した者には寛大な処置をしており、北条も徳川家康の仲介を素直に聞き入れ秀吉に臣従していれば、このま ま関八州の盟主として君臨することもできたでしょうし、あのような悲劇も生まれなかったのかもしれません。 また、八王子城の落城にあたっては、横地監物の敗走が伝えられています。城が1日にして落城したことは、横地氏にとっては、無念の極みであり、再起を期すべく横地氏は数名の従者とともに、燃え盛り、今まさに落城せんとする八王子城より脱出したとする話もある。経路としては恩方醍醐から市道山に抜け、桧原城を目指したとされているが、追手に捕まり惨殺されたとされている。桧原には横地社があったが、今は八王子城跡に昭和32年に移転されたとされる。 PR 《三井住友銀行グループのプロミス》インターネットで簡単申込!プロミスは自動審査で1秒回答!50万円までのご融資なら来店不要で当日振込⇒最短30分!自動審査ですぐにご利用可能額がわかるから初めてでも安心、納得!便利に賢く使える《プロミス》です。全国の三井住友銀行のATMからも出金OK♪ ネットで24時間申込受付中!→お申込はこちら
氏照は、北条内の最強硬派であったようで主戦論者でもあったようです。その氏照の持城である八王子城をいわばみせしめとして徹底的な殺戮戦により小田原の本城の開城、降伏を迫ったものだと考えられます 北条氏の支城の中でも中核的存在であった八王子城の落城、四万四千の秀吉軍に包囲されながらも、抵抗し続けていた韮山城の開城は、氏政・氏直にとっても大きな痛手でした。 すでにその前に重臣松田憲秀(のりひで)や忍城主成田氏長の内応もあり、小田原城中は動揺していた。6月24日韮山城を明け渡した北条氏規は、氏政・氏直父子に降伏をすすめた。秀吉軍に抗するのも、もはやこれまでと、氏政・氏直は降伏を決意したといいます。 天正18(1590)年7月5日、北条氏直は弟氏房を伴って小田原城を出て家康の陣に行き、自分は責任を負って切腹するから城中の将兵の命は助けて欲しい、と嘆願した。家康はそのまま氏直を滝川雄利のもとへと行かせ、氏直が投降してきたことを秀吉に告げた(『家忠日記追加』)。秀吉は直ちに氏直の降伏を受け入れたのです。 秀吉はこれを神妙だと感じたされていますが、氏直は家康の娘婿であるという考慮から助命されたともいいます。しかし氏政・氏照と重臣の松田憲秀、大道寺政繁には切腹を命じたのでした。氏政・氏照が秀吉との一戦を強硬に主張した主戦派であったことを秀吉は熟知していたし、また、憲秀や政繁は北条氏の重臣でありながら卑劣な行為があり、この二人も主戦派であったことを秀吉は知っていたのです。 7月5日、これらの処罰を命じた氏直あての秀吉朱印状(小早川文書)に、秀吉はわざわざ自筆で「尚々、是非四人然(しか)るべく候」と書き入れてあり、秀吉の決意のほどが知られる。 小田原城の受けとりは翌六日であった。家康の家臣榊原康政と秀吉の部下脇坂安治・片桐直盛の両名が代表として城内に入った。開城は混乱もなく行われ、七日から九日の間に数万の城兵が城から出て四方に散っていった。 氏政・氏照兄弟も九日に城を出て、城下にあった田村安栖(あんせい)の屋敷に入った。 7月11日の夜、氏政・氏照は弟氏規の介錯(かいしゃく)で切腹し果てた。『太閤記』には、その時の時世の歌が記されている。 天地(あまち)の清き中より 生れきて もとのすみかにかへるべらなり 氏照 明応四(1495)年初代北条早雲が小田原城を襲い、大森藤頼を追ってから五代、およそ百年にわたり、小田原を中心に関東に君臨した戦国大名小田原北条氏は終焉の時を迎えたのである。それは豊臣の全国制覇を意味し、切腹の数十日後徳川家康が江戸入りし、ここに新しい時代が始まるわけです 江戸時代に八王子城は廃城となり徳川家の直轄地になりました。そのため現在でも城の遺構がよく保存され多くの遺物が発掘されています。近年、国の史跡として整備されており御主殿や遊歩道、橋が復元され戦国時代の城を忍ばせます
八王子城の落城に際しては数々の伝説が残っています。興味のあるかたは
新聞記事より
八王子城跡を圏央道から守ろう 交通事故の後遺症に負けず童話に託す 朝日新聞 90.04.23 朝刊 東京版 中世の山城の遺構と遺跡が残る国の指定史跡八王子城(八王子市元八王子町)が落城してからこの6月(旧暦)で400年。同市の催しも具体化するなかで、首都圏中央連絡道路(圏央道)計画が史跡の風光を損なう恐れがあると、歴史、地質、植物学者などの関心を集めている。そんな中で、地元のかたくら書店から児童文学者古世古(こせこ)和子さん(61)が書いた「ゆうれいからのラブコール」が発刊された。「八王子城跡の自然と歴史の呼び声を伝えたい」と、交通事故の後遺症が残る体で書き続けた。 「地域の自然のありがたさに少年少女も気づいてほしかった」という。 夫の考古学者椚国男さん(63)は、「高尾山の自然を守る会」のリーダー。八王 子城跡遺構の調査研究を重ねている。この1月には、峰岸純夫都立大教授と編集責任 者になり、ブックレット『八王子城―みる・きく・あるく――』(揺籃社刊)を出版 している。都が都市計画決定した圏央道は、八王子城本丸や支城の下をトンネルで貫き、地質、 水脈、植生に重大な影響を及ぼす――という危機感に駆られた専門家たちが、無料で 共同執筆した。 『中国に残された子どもたち』(岩波書店)や『8月の最終列車』(新日本出版社)など、中国でも翻訳された意欲作を書いてきた古世古さんには、八王子城落城悲話を題材にした『赤いくし』(童心社)の作品もある。八王子城の歴史を背景に、少年時代小説の執筆にとりかかっていた一昨年の夏、横断歩道でオートバイにはね飛ばされた。 全身打撲で3カ月余の入院生活が続いた。 退院したものの座っては書けない。無念さを噛(か)みしめながら発見したのが、すわり机の下へあおむけになって体をずり入れる方法だった。机の裏に原稿用紙をピンでとめ、寝たままの姿勢で書くのである。 こうして150ページ新書判の童話が出来上がった。「もう書けないのだろうか」という絶望からはい上がり、原稿料はあてにしない、地域のための1書だった。 15 90年6月23日、豊臣秀吉勢の猛攻で落城した北条氏照の居城八王子城には、婦女子も含めた地元の民衆も緊急徴用されていた。滝に身を投げた女たちの死は、今に伝わる「血の川」の伝説を生んだ。 近くには合戦死者の遺骨を集めた千体地蔵堂もあり、そこには太平洋戦争で米機の機銃で即死した疎開学童のランドセル地蔵もある。「戦いの悲劇で死んだ幽霊たちが今よみがえって、城跡と高尾の自然を守ることを呼びかけている」という実感を、どうしても童話に託したかった。 童話の最後は城山山頂での祭り。幽霊に扮(ふん)したチンドン屋さんは呼びかけ た。「この山を、自然を、鉄の爪(つめ)で砕こうとするものから守りあい、美しい 姿のままを子に孫にわたしていこうではありませんか」さる15日、「高尾山をまもる市民の会」が行った「八王子城みる・きく・あるく 会」に古世古さんもツエをついて参加した。150人の人たちが遺構のある山頂に登 った。「かけがえのない地球と人間の生存環境を守る運動に加わることは、身近にあ る自然や史跡を守ることにあると思います」という八王子城宣言が朗読された。体は まだ痛んだがさわやかだった。参加者には、出来たばかりの「ゆうれいからのラブコ ール」も配られた。